2017年9月6日水曜日

時間


この文は、2017年9月に書いている。
朝だ。
リビングから、長男と妻のやりとりが聞こえてくる。

「青くん、何食べる?」
「タベナイ」
「食べないと学校間に合わないよ」
「ガッコウイカナイ」

長男の青はもうすぐ七歳、知的な障害のある自閉症、
特別支援学校小等部の一年である。
リビングへ行ってみると、腹を出してフローリングに寝転がっていた。

「青くん、学校行かないの?」
「ガッコウイカナイ」
「バス乗らないの?」
「バスノラナイ」

三歳の次男の姿が見えない。

「橙は?」と妻に聞く。
妻はテーブルで、長男の連絡帳を書いている。
「寝る部屋」
「なんで」
「眼鏡かけたくないって拗ねてる」

次男の橙は最近、重度の遠視とわかり、
起きている時間は眼鏡を常時着用しなければならない。
寝室に行くと、窓際のベッドの端にうずくまっている。
脇に腰掛けたら、小さな両手で顔を覆った。

「だいちゃん、パパです」
黙っている。
「だーしゃ」
「・・パパあっち行って」
覆った手のひら越しに、か細い声だ。
「だいちゃん、メガネかけてほしいな」
「かけない」
「よく似合ってるのに」
「かけないいい」

ないないづくしの朝だ。
でも嫌な気分じゃない。
そこに言葉があるからだ。

*****

2014年6月、今から三年と少し前、
当時三歳半の長男に言葉は無かった。
次男は生後三ヶ月、
私は世話が大変な長男を受け持つために育児休業中で、
彼を憎む気持ちを日増しに強めていた。
周りが幼稚園に通い始める中、
言葉を話さず、言葉を聞かず、ただ暴れて泣くだけの子供。
障害ゆえに出来ないことなのに、苛立って叱りつけ、
それで泣き暴れるのをまた怒鳴り散らし、
彼が重荷で仕方なく、
この先がどうにも憂鬱で、
誰とも話したくなかった。

障害を持つ息子が可哀想なのではなく、
障害を持つ息子を持つ自分が可哀想だった。

精神安定剤に依存し、二時間おきに飲んでいた。
危機感を持った主治医が薬を変えたが、これが合わずに禁断症状が出た。
体中が激しく痛み、手足が震え、
学校のチャイムの音が二十四時間頭の中で鳴っていた。
それは自分の人生の刻限を告げているように思えた。

この文は、三年前の自分へ宛てた手紙のようなものだ。
伝えたいことは単純で、
結局のところ「時間が多くの物事を解決していく」という事実である。
しかし、どんな時間でもいいというわけではない。
多くの物事を解決していくのは、
物事と真剣に向き合った時間だけだ。

*****

鮮明に憶えていることがいくつかある。
ひとつは次男の百日参りのために、妻の実家の長野諏訪へ帰った際、
諏訪大社の社務所で申し込みの書類を書いた時のことだ。
ボールペンを持った瞬間「あ、書けない」と思った。
禁断症状の震えが止まらないのだ。
後頭部から汗が噴き出すのを感じる。
右の手首を、左手で押さえたら書けるだろうか、それだと震えているのがばれてしまう。
いや、それでも書けないよりはいい。
住所、親の名前、子の名前。
子の名前まで、永遠にたどり着かないと思った。

まあ正直、これは大したことではない。
無理をすれば笑い話にできるくらいだ。
だが他の記憶は、到底笑い話にできない。

長男と風呂に入っていた。
二人で浸かったバスタブで、子供がコップにお湯をすくい、それを私の顔にかける。
すくって、かける。すくって、かける。ずっと続ける。
「青くん、もうやめて」
すくって、かける。
「青くん、やめて」
すくって、かける。
「やめて」
すくって、

気がつくと、子供の頭を押さえて沈めていた。
彼の右手のコップを取り上げなかったのはなぜだろう。
取り上げて、泣き叫ばれるのが嫌だったからか。

押し返す力はあまり感じなかった。
静かだ。
自分の呼吸の音を久しぶりに聴いた。
吸って、吐いて。
三回ほど聴いてから手を放した。
頭が水面に出てくる。
左手で顔をぬぐうと、私の方を向いて元通り立った。
しかし、私のことは見ていない。
私を見てくれたことはない。

彼が右手のコップでまたお湯をすくい、
それを私の顔にかけた。

頭の中が真っ黒に沸騰した。

子供の首に手を当てた。
左手ひとつで余るくらいだ、右手は添えるだけ。
ぐいと力を入れて沈めると、揺れる水越しに彼が私の目を見た。
なんだ、見れるじゃないか
見れるじゃないか見れるじゃないか
もっと押せ
もっと押せ左手、もっともっと押せ押せ押せ押せ
両目が見開く、ううううという唸り声を聞く、唸っているのは自分だ
唸っているのは自分だ
俺は何をやっているんだ

俺は何をやっているんだ?

ざばんとしぶきを上げて青が立った。
ほんの少し間があって、ぎゃーっと泣き出す。
「青ごめん」
手を伸ばして肩に触れると、びくんと震えて後ずさった。
「ごめん青。ごめん」
何もかも終わってしまう気がした。
いや、今にしてみれば終わらなかったのだ。
終わらずに済んだのだ。
でもその時は、「終わってしまう」としか思えなかった。

翌朝、自転車で路地を曲がって環八に出た時、
ハンドルを切り損ねて車道へ転倒した。
青を発達支援のデイサービスに送っていく途中だった。
こちらに走ってくるトラックを見ながら、
二人とも死ぬかもしれない、それもいいと思った。

だがトラックは目の前で止まった。

自転車を起こすと、車窓に自分の顔が映った。
一瞬見間違うほど自分の父親と似ていた。
ひょっとするとそれは、私の中に残っている彼そのものだったのかもしれない。
涙もろくて怒りっぽくて繊細で、酒を飲みすぎて死んだ父。
最期の病院で十七の息子に「母さんを頼む」と言い残して無責任に死んだ父。
私は父を責めながら生きてきた。
しかし車窓の父は私を責めるでもなく、なじるでもなく、
ただ私を見ていた。
私が私を見ていた。
振り返ると、青が車道に立っていた。
どこか打っただろうに、泣きもせず、じっと立って私を見ていた。
私を気遣うように見ていた。

その後、降りてきた運転手に大丈夫かと聞かれた記憶はあるが、
ちゃんと謝ったかどうか憶えていない。
どうやって青を施設に送り届けたかも憶えていない。

憶えているのは、千歳烏山の駅前の広場だ。
遊具の隣りのベンチにひとりで座って、梅雨空と鳩を見た。

「自分の人生」
と、口に出してみた。
自分の人生の主役は誰だろう?
主役は自分だと思っていた。事ここに及んでも思っていた。
違うのだ。
自分の人生の主役は自分じゃない。
脇役なのだ。
脇役になったのだ。
主役だと思っているから、怒りを制御できないのだ。
脇役なのだ。

梅雨空の下、駅前広場のベンチに猫背の脇役。
腰骨のあたりに打撲の鈍痛。
それが人生の底だった。

*****

大きなリュックを背負った長男が先を歩いていく。
送迎バスの停留場所まで、自宅から十分ほどだ。

「青くん、車に気をつけて」
「キヲツケルシナイ」
「はじっこ歩いて」
「ハジッコアルクシナイ」

最近は何でも否定文だが、ほとんどの場合は本気ではない。
「ガッコウイカナイ」と言ってはいても、
本当に嫌がったことは今のところ一度もない。

先刻、妻に抱かれて玄関まで見送りに出てきた次男も
結局は眼鏡をかけてくれていた。
「似合うねえ」と褒めると、満更でも無さそうだった。

あれから特別なことをしてきたわけではない。
と言うより、特別なことはやめた。
ただ子供が笑顔でいられるように、
まず自分が、子供に笑顔を見せることを心がけてきた。いつもは難しいが。

時間。
時間が過ぎていく強さ。

三年前の自分、この先どうなるものかと混乱している君
あと半年もすれば、君の息子は君のことをパパと呼ぶ
一年後には自分で用を足し、服を着替え、
君に「アリガトウ」と言うだろう
二年後には箸を使い始め、椅子に座る時間が伸び、
近所の人に「コンニチワ」と言えるようになる
そして三年後には
絵本を読み、歌に合わせて踊り、君に憎まれ口をたたくのだ
それは新しく適切な療育の数々を提供してくれた、地域の専門家達のおかげであり、
君の息子にとって最適な組み合わせを選択した、君たち両親の成果だ

停留所、上級生の男の子が
なかなか来ないバスにしびれを切らしている。

「ねえ青くんパパ、バスまだー?」
「んー、もうすぐ来ると思うよ」
すると隣りの青が
「ア!バスキタ!」
全員が車道を見ると、満面の笑みで
「ウソー」
なんだよー、と、みんな笑った。



2017年5月19日金曜日

にいに

弟は、にいにが好きでしょうがない。
にいにが走れば追いかけるし、
座れば隣に座る。

でも、にいにが幼稚園のともだちとは
違うことにも気づいている。
複雑な言葉を話すことは無いし、
複雑な遊びのルールを理解することも無い。

もう少ししたら、
きみはにいにを嫌いになるだろうか。
そうなるとしたら、
それも仕方が無いだろう。

それでもまた、必ず好きになるだろう。
にいには違っているけれど、
いいやつだから。





2017年4月7日金曜日

All of us are better when we're loved


長男・青の特別支援学校入学式を前に、
高井戸の松屋で朝飯を食べた。
知的障害者の青年がシフトに入っており、
配膳の前段階や食器洗浄を担当していて、なかなか良い手際だった。

息子が十八になった時、どうなっていてほしいか。
社会で仕事に就き、正当な対価を受け取ってほしい。
以前は口ごもっていた答えだが、今は自信を持って言える。
皆で歩むのをやめなければ、彼にはそれが出来るだろう。

そして一人の親としては、
子の社会が障害者に対する寛容さを致命的に失うことが無いよう、
現実的に尽くしていきたい。
チショウと呼んで蔑む心は無くせないにしても、
そのような悪意と非寛容が社会全体を覆ってしまわないよう、
善意と寛容の価値を愚直に掲げていきたい。

入学式、礼装の長男は親と離れて静かに座っていた。
終了後、保護者席に駆けてくると
「青ガンバッタネ」と自ら言って満面の笑顔を見せてくれた。
座右の書、アリステア・マクラウドの
「彼方なる歌に耳を澄ませよ」の一節を改めて思った。

「誰でも愛されると、より良い人間になる」


2017年1月25日水曜日

続ける

「治るというものではありません」
現代の自閉症児の親が全員、医師から聞かされる言葉だ。
個人的にはほぼ事実と思う。
診断後、健常の国へ籍を移した例を知らない。
ただ、異邦人として健常の国で暮らせる程度に適応することは
不可能ではないと思っている。
それを可能にするのが日々の療育であり、
親としての勝負どころだと思っている。

「治らない」と言われて、
親たちは様々に反応する。
「そんなはずはない、治る」と目の色を変え、
玉石混淆の療育法を片っ端から試す人。
「このままでいいの、だって治らないんだもの」と抱きしめて、
それきり何もしない人。
両方気持ちはわかるが、極端な態度には賛成できない。
子供のためと言いながら子供を見ていない。

郊外へ向かう電車の向かいの席に、
小柄なお母さんと大柄な自閉症児が座っていた。
子供が突然奇声を上げ、次の駅で降りると身をよじり出す。
まだ先だとお母さんがなだめるけれどうまくいかず、
子供は目を見開きこぶしを振り上げる。
お母さんは身動きやめて、手を膝に彼の目を見る。
彼がぎりぎりと歯を鳴らしながら、
振り上げたこぶしを下ろす。

親子は次の駅で降りて行った。
お母さんは今まで何度途中下車しただろう。
今回もした。
しかしお母さんは今まで何度、息子に殴られたことだろう。
今回は殴られなかった。
そこに少しの前進があり、希望がある。

週末から我が家にも何度目かの嵐が来て、妻も私も疲れている。
携帯端末に残っている長男の三年前の写真を、
最近のものと見比べる。
三年前、私が子育てを始めた頃だ。
それまでは妻が一人でしていた。
しかしそこから三年、まあまあさぼらずやって来た。
そのことを小さな誇りにして、今日も続ける。



2016年11月3日木曜日

車窓

祝日の午前、用事も無かったけれど
長男と二人で外へ出た。
最近はすでに次男が精神発達の面で
長男を追い越しつつあり、
親のほうでも弟と会話する時間が増え、
それが言葉をうまく扱えない兄を
悲しませているきらいがあるので、
何とか機嫌を直してもらおうと思ったのだ。

行くあてもなく下りの京王線に乗って、
落ち着いたところで
「はまざきーあおくん」と声を掛けた。
「はーい」と答えて彼が手を挙げる。
たったこれだけのこと、
出来るようになるまで随分練習したなと思いながら、
息子可愛さがふつふつとこみあげ、
つい何回か繰り返してしまう。
はまざきーあおくん、はーい。

するとそれまであちらを見ていた青が振り返って

「はーざきーぱぱー」

驚いた、虚を突かれたが、
何とか「はーい」と返した。
手は挙げ忘れた。

「すごいねー初めてだねー。
 はまざきーあおくん」
「はーい。
 はーざきーぱぱー」
「はーい」

ああ感動させてくれるなあ、
でもまあ泣きはしねえよと外を見たが、
やっぱりぐっと来て口を押さえた。

もちろん嬉しい、でもそれだけじゃない。
車窓越しの景色のように、
時が過ぎていくことの強さを思った。



2016年9月7日水曜日

そばの思い出

平日の昼食はだいたい立ち食いそばで済ます。
電車通学になった十五の春以来、
のべ何杯食ったか見当もつかない。
プッチンプリンがプリンではないように、
立ち食いそばも蕎麦ではない。
別の食べ物で、両方好きだ。

就職して東京に出てきたころ、
当時の恋人と立ち食いそば屋に入ったことがある。
彼女はそれまで一度も食べたことがなく、
一口たぐって
「何これ、まずいね」と言った。
蕎麦切りと思って食えばそりゃ不味い。
お嬢様育ちにオー・ヘンリーの
「都会の敗北」を気取った自分が悪かったのだが、
その人とは結局、うまくいかなかった。

「思い出の立ち食いそばは」と妻に聞かれた時、
割とすんなり
「長野塩尻の駅そば」と答えた。
京都での大学時代、
白馬で行われる合唱団の夏合宿に
青春18切符で向かう途中、
乗り継ぎの電車を塩尻で二時間待つ。
一年に一度しか食べない山菜そばの味が、
仲間と手持ち無沙汰のプラットフォームとともに
懐かしく思い出されたのだ。

すると妻が
「その駅そば、私も食べてたよ」と言う。
中学のころ、
実家の諏訪から松本の病院へ
定期的に通っていたことがあり、
付き添いのお母さんと寄っていたそうだ。
定番はコロッケそばだったという。

妻は私の五歳下で、
こちらが大学生のころ、
あちらは中学生だった。
今、くたびれた都会の男どもと並んで
コシの無い麺をすするたび、
あの時の自分の横に、
コロッケそばを食べている
しかめっ面の女の子がいなかっただろうかと考える。
いなかったに決まっているけれど、
そんな想像はとても楽しい。




2016年7月7日木曜日

Zabadak

「ザバダック」と耳にするだけで、
京都での大学時代を思い出す。
いわゆるヒット曲は全く持たないバンドだったが、
九十年代前半、
左京区東一条界隈のいろんな音楽サークル周辺で、
とにかく流行っていたことを憶えている。

合唱団の先輩に「遠い音楽」を貸してもらって気に入り、
四条烏丸の十字屋で、
当時の新譜だった「桜」を買った。
耽溺した。
はじめは上野洋子の歌声が目当てだったが、
次第に吉良知彦のギターに興味を引かれた。
日比谷野音のライブのVHS、
手元のアップを擦り切れるぐらい再生して
弾きかたを覚えた。

今朝、その吉良さんの訃報に接して、
自分でも意外なほどの衝撃を受けた。
昼休み、職場の窓際で
iPodのプレイリストを久しぶりに聴いた。
五つの橋、アジアの花、光の人、そして遠い音楽。
目の前のぎらぎらした商業ビルが現実感を失い、
二十年前の木陰の湿り気が蘇るように感じられた。
サークルボックスの入り口に座って
覚えたばかりのイントロを弾くと、
隣の同級生がひっそり声を合わせてきた。

それはまさに青春の1ページで、
それなり時は経ったにせよ、
今の自分と確かに地続きであると、
これまでも感じられていた記憶だった。
しかし吉良さんが別の世界へ旅立ったのと同時に、
その思い出もまた、
容易に辿れない別の世界へ遠のいてしまったような気がした。
それが悪いことだとは思わないけれど、
遠ければ遠いだけ、やはり寂しい。

56歳。
ロンドンパンクの人じゃあるまいし、
もっと長生きしてほしかった。
ご冥福をお祈りします。