2008年11月10日月曜日

八幡山通過

仕事帰りの混雑した電車の中、
背の高い、まだスーツのちょっと似合っていない青年が
自分のすぐ前に立っていて、
それで彼の携帯メールの画面がなんとなく目に入ったのだが、
京王線の明大前を出たとき、彼は

「明大前発車」

と、送信した。


するとすぐに返事が来て、
そこには

「八幡山通過」

と書いてあった。

京王線の駅は新宿から八王子の方向に
明大前(急行停車)、下高井戸、
桜上水(急行停車・僕の最寄り駅)、
上北沢、八幡山と続いていく。

つまりこの青年は下りの列車、
そして彼の恋人は上りの列車に乗って、
お互いに近づいて来ているところというわけだ。

さて、「八幡山通過」に対する彼の返信は

「下高井戸通過」

で、やがて桜上水に着くと
青年は電車を降りた。

エスカレーターを上がったところで
彼は周りを見まわし、上りの発着掲示板を見上げ、
「おかしいな、もう着いているころだけど」という具合に
ちょっと首をかしげて、

それから改札の外に目をやると、
顔がぱあっとほころんだ。

恋人はメガネをかけたちいさなひとで、
改札を出た向かいの本屋の前で待っていた。


で、勝手にメールの画面を見た上に
彼女を見つけるところを離れたところからわざわざ眺めて
悪かったなあと重々反省しながらも
(実はあんまり反省していない)
思ったことは、

「携帯メールって、良いな」

ということだ。

「明大前発車」
「八幡山通過」
「下高井戸通過」

こういうやりとりって、
携帯メールが無かったついこのあいだまでは
ぜったいに存在しなかったものだ。


電話より間接的で、手紙より迅速。

なかなかキュートじゃないか。
感心した。



2008年9月9日火曜日

黒い犬について

調子が悪くなるときは、だいたい事前にわかる。 
だいたい夜だ。 
具体的に、どこがどうなるっていうものじゃない。 
「ああ、悪くなるだろうな」と漠然と思うだけだ。 

そして朝、悪くなっている。 
前兆があったら、ほぼ確実にそれはやってくる。 

全身がだるいとか、起き上がって着替える気にならないとか 
そんなのいつでも誰にでもあることだろうし 
昔からあったし 
おさえこむことができた。 
ちょっと気合を入れさえすれば、おさえこむことができた。 

だが、それが出来なくなってしまった。 
どんなにがんばっても、出来ない。 
おさえこまれるのだ。 
圧倒的におさえこまれる。 

チャーチルは 
かつて自身の抑うつのことを「黒い犬」にたとえたそうだが、 
少なくとも僕の中の黒い犬は、 
力を得たとき今の僕の手には負えない。 
僕の中に黒い犬が住み始めたのが 
いつなのかはわからないけれど、 
いったいこんなしろものを、かつてはどうやって制御していたのだろうと思う。 
黒い犬が度を超えて強くなってしまったということかもしれないし、 
こちらの「制御する力」が弱くなってしまったということかもしれない。 
だがどちらにしても 
僕の中で何かが変わってしまったということなのだ。 

決壊してしまった 
あふれてしまった 
流れていってしまった 
ほかの言葉をあてはめてみれば 
なんとなくどれも的を得ているようで 
またなんとなく、どれも少し違うような気もする 
結局、「変わってしまった」としかいいようがない 

いつまでこれが続くのだろうと、思わずにはいられない。 
完全に元に戻ることはないだろう、とも思う。 
第一、「元に戻る」といっても 
どの時点に戻ることなのかもはっきりしない。 
だからこれを受け入れるしかないのだ。 
納得はいかないが、 
受け入れて向き合っていくしかないのだろうと思う。 

さて、チャーチルの「黒い犬」について僕に教えてくれたのは 
妻だ。 
きょうも夕食時、黒い犬について話をした。 

きょう、妻は言った。 

「チャーチルがそれを黒い犬にたとえたのは 
 それを 
 自分自身の中にあって、なんとか可愛がれるものとして 
 とらえていたからじゃないかなと思う。 
 だって普通だったら、闇とか魔物とか言えばいいでしょう。 
 犬なら、まだ可愛がれるもの」 

僕は今まで、そんなふうには思ってみたこともなかった。 
あまりにも思ってみたことがなかったので、 
その言葉を聞いたとき、世界が一度更新されたように感じた。 
大げさではなく、そのような感覚を持った。 
妻はそんなふうにして 
時々、僕の認識をまったく新しくしてくれる。 
つまり、僕の人生を更新してくれるということだ。 

それは、今の僕にとって 
とても素晴らしいことだと思う。


2008年8月31日日曜日

特権

夏服を着た十代の男の子と女の子が 
コーヒーショップの奥の方にならんで座っていて 
思わずしばらくのあいだ見入ってしまったのだが、 
なぜ見入ってしまったかというと 
それは 
男の子がものすごく女の子に触りたがっているのが 
ものすごくわかったからだ。 

ちょっと髪の先にふれたいとか 
ちょっと手と手をあわせたいとか 
そういうレベルじゃ全然なくて、 

もっと致命的に触りたがっているのが 

なんでそんなことわかるのかって言われても 
そんなことはわからないんですが、 
とにかくまあわかっちまったわけです。 

何がいいって 

そのやせっぽちな男の子が 
そのちょっと眠たそうな女の子に触りたいと 
そんなにも 
こっちにありありとわかってしまうほど願っているさまが 
全然 
まったく 
いやらしくないということが、たまらなくよかった。 

もちろんその男の子がもともと持っている資質によるところも 
大きいとは思うけれど 
まあおそらく 
それこそが十代の特権てやつなのだろう 

たとえばあと十年たって 
あんなにあからさまな彼の願望が 
あんなにキュートに見えることなんて 
ありえないと思う 
いや、ありえるのかもしれないが個人的には考えられない 

とにかく、その時その女の子に 

「隣のそいつ、すげえ触りたがってるぞ!」 

って、伝えてやりたいなあと思った 
大きなお世話だ 
第一そんなこと 
言われなくてもわかってるよなあ 
いやわかってないか 
いやいやわかってる 
いやいやいやそんなことどっちだってどうでもいい 


ああうらやましい 
でも別に、戻りたくはない 
眺めているのがいいのだ


2008年4月28日月曜日

声をかける

仕事帰りの地下鉄で 
読んでいた本から顔を上げると、 
十年前、同じ仕事場で働いていた男が 
向かいの席に座っていて驚いた 

大学を出て働き始めたばかりのころ 
家に帰る暇はもちろん、寝る暇もお互い無くて 
会議室の椅子を三つずつ並べて 
少しずつまどろんだものだった 

今も同じ建物にいるものの 
最後にまじまじと会ったのは 
おそらく二年以上も前だろう 

横に座った、体ごとぶつけるように喋る 
後輩とおぼしき男が 
いかにも熱心そうな雰囲気で、彼に質問し続けていて 

一方 
彼は少なくとも一晩は寝ていない顔つきで 
黒々と伸びた不似合いな無精髭からも 
長い仕事の区切りに 
ようやく家路につくことが明らかであり、 
本当のところ、目をつむってじっとしていたいのは 
容易に知られたが、 
それでも丁寧に、いちいち答えてやっていた 

そういうところに昔と変わらない人柄が見えて 
なつかしく思ったけれど、 
それにしても大変疲れているようだし 
連れとの会話に割り込んでもいいものか、迷った 

結局 
乗換えの一駅前を過ぎたところで声をかけたが 
おおとかああとか 
通りいっぺんの挨拶だけで時間になってしまい 
もう少し早くすればよかったと後悔した 

あわただしくホームに降りて 
歩き去りざまに車窓を見るとき 

もうこちらと、目は合わさないだろうか 
合わさないなら少しはがっかりするが 
合わさないにしても良しとしようと思いながら顔を向けると 
窓越しにまっすぐこちらを見て 
右手をあげていた 

ああ、やっぱりこういうやつだなあと思いながら 
こちらも手をあげて 
乗り継ぎの階段に向かった