2011年12月21日水曜日

続いている

先週日曜、京都大学ハイマート合唱団
50周年記念定期演奏会のOBOG合同ステージにて、
モーツァルトの戴冠式ミサを歌いました。
素晴らしい一日でした。
総勢280名の合唱は非常にポジティブなもので、
歌っているあいだじゅう
ぞくぞくとする楽しさがありましたが、
個人的には
演奏終了後、今年の定演委員長が
万雷の拍手を受ける様子を後ろから見ていた時、
一番ぐっときました。
私自身が定演委員長をやったのは
17年前、1994年のことで、
今回のような大がかりな演奏会ではありませんでしたが、
それでもステージで受けた拍手の味、
感じたカタルシスは今でも鮮明に憶えています。
否応なく当時が思い出され、
否応なく、当時の自分と重ね合わせる。
続いているのだ、ということを強く感じました。
続いているのはもちろん喜びや充足感だけではない、
徒労も、反目も、後悔も失敗もそれぞれに続いている。
しかしいずれにしても、
続いてきて、続いていて、続いていくということは
ひとりひとりにとってどんなに素晴らしく貴重なことだろう、
そして自分が
連綿と続くその流れのひとかけらであるのは
なんと気持ちの良いことだろう、
そんなことを思いました。
『流れの一部であること』を
肯定的に感じるというのは、
以前の自分を省みれば意外な心境の変化ですが、
やはり息子が生まれたから、というのはあると思います。
今回、兵庫県芸術文化センターの広々としたロビーで、
靴を履いて歩く息子の姿を初めて見ました。
楽しそうに声をあげながら心あてに進んでいく息子の
後ろや横に伴いながら、
自分の中に新しい感情がやってきているのを感じました。
年をとったといえばそれまでだが、
年をとることは退化を意味しない
時を経るごとに、深くしっとりとする
節目の演奏会を創った現役の方々、
伊吹新一先生の名のもとにつどったOBOGの方々、
ハイマートの五十年に感謝します。
そして、病のため降板された伊吹先生の御回復を祈ります。

2011年10月10日月曜日

遠い三月の水

だいじな人はゆっくり離れる。
手のひら返したように急速に離れていく人は、
そもそもだいじな人じゃない。

ゆっくり行われる離別は酷だ。
体の奥のほうをどろどろにされて、
それを抜き取られるように苦しい。
でも、それをわかっていながら
こちらがだいじな人から離れるときだって
やっぱりゆっくりやる。
ためらうので。


きのう品川で、妻と息子が
僕の母と会った。
僕は母に会いたくないし、会わない。
顔を見たくないし、声を聞きたくない。

もうすぐ一歳になる息子を見て、
母は僕に似ていると、
僕の父に似ていると話し
泣いたという。
僕は少し自問する。
そろそろ許すわけにはいかないかと。
それは罪悪感だ。
しかし再び頭の中は
母に対する暗い怒りで嵐のように満たされ、
まだ時期でないと憂鬱に告げる。

アントニオ・カルロス・ジョビンの
「三月の水」を久しぶりに聴いた。

A stick, a stone, the end of the road
The rest of a stump, a lonesome road
A sliver of glass, a life, the sun,
A knife, a death, the end of the run
And the riverbank talks of the waters of March,
It's the end of all strain
It's the joy in your heart

棒きれ 石ころ 道の終わり
切り株に腰かける さびしい道
ガラスのかけら 人生 太陽
ナイフ 死 走るのをやめる
そして川岸が語る三月の水
それは苦しみの終わり
それは心にうまれる喜び

すごい歌だ。
でも遠い。
このような心持ちに
いつかは、近しくなれればよいと思う。


2011年2月8日火曜日

男の子の失敗

八幡山駅の改札の脇、券売機のあたりで
近くの高校のブレザーを着た男の子と女の子が
向かい合ってなにごとか話していて
二人の鼻と鼻のあいだには紙一枚ぐらいの隙間しかない

男の子は茶色の髪を後ろになでつけて
アルミのママチャリにまたがっている
女の子の髪は栗色で、肩のところまでまっすぐ伸ばし
グレーのスカートの丈はとても短い

女の子がいったんさよならと手をふって改札に向かう
男の子はそのまま見送るらしい
と、女の子が小走りに戻ってきて
かばんから取り出した菓子パンのようなものを
男の子の自転車の前かごに入れた
そうしてふたり笑う

声が途切れて、女の子はちょっと目を伏せ
それから、もういっぺんさよならと手をふって
今度は改札をくぐった
券売機は改札の脇
券売機の前にいる男の子からは、改札の入口までしか見えない
女の子が視界から消えると
男の子はポケットから携帯を出した
そのまま誰かと話しはじめた

だが女の子は
改札の内側から身を乗り出すようにして
まだ男の子を見つめていた

そしてしばらくそのまま

どうやら男の子が気づきそうもないので
やがて女の子は諦めたように踵を返すと
エスカレータを上がっていった

男の子にしてみれば
失敗をしたという認識も無いだろうし
認識したところで
ほんの些細なことだと思うのみだろうが
それは明らかに致命的な失敗だった

駅で女の子を見送る時は
男の子は改札の奥まで見通せる位置に立って
女の子がそこから見えなくなるまで
彼女がコンコースの奥のほうへと消えるまで
じっと注視しているべきだ
きみのことを好きなら
女の子は何度でも振り返るだろう
そしてそのたび
にっこり笑って手を振り返すだけでいい
そんなに難しいことじゃない

ただ、難しいことじゃないので
周りの人はわざわざ教えてはくれない
だから大概、ずっとあとになって気づく
あれは致命的な失敗だったと
あるいは、あとになっても気づくことさえ無い
たとえば恋の終わり際に女の子が教えてくれたなら
ずいぶん運の良いことだろう

女の子が本当に去ったあとも
男の子は同じところでママチャリにまたがったまま
電話の相手と話していた
とても楽しそうだった