2011年10月10日月曜日

遠い三月の水

だいじな人はゆっくり離れる。
手のひら返したように急速に離れていく人は、
そもそもだいじな人じゃない。

ゆっくり行われる離別は酷だ。
体の奥のほうをどろどろにされて、
それを抜き取られるように苦しい。
でも、それをわかっていながら
こちらがだいじな人から離れるときだって
やっぱりゆっくりやる。
ためらうので。


きのう品川で、妻と息子が
僕の母と会った。
僕は母に会いたくないし、会わない。
顔を見たくないし、声を聞きたくない。

もうすぐ一歳になる息子を見て、
母は僕に似ていると、
僕の父に似ていると話し
泣いたという。
僕は少し自問する。
そろそろ許すわけにはいかないかと。
それは罪悪感だ。
しかし再び頭の中は
母に対する暗い怒りで嵐のように満たされ、
まだ時期でないと憂鬱に告げる。

アントニオ・カルロス・ジョビンの
「三月の水」を久しぶりに聴いた。

A stick, a stone, the end of the road
The rest of a stump, a lonesome road
A sliver of glass, a life, the sun,
A knife, a death, the end of the run
And the riverbank talks of the waters of March,
It's the end of all strain
It's the joy in your heart

棒きれ 石ころ 道の終わり
切り株に腰かける さびしい道
ガラスのかけら 人生 太陽
ナイフ 死 走るのをやめる
そして川岸が語る三月の水
それは苦しみの終わり
それは心にうまれる喜び

すごい歌だ。
でも遠い。
このような心持ちに
いつかは、近しくなれればよいと思う。