2013年12月31日火曜日

ヘビー

2013年。

春に長男が「知的な遅れのある自閉症」と診断されショックを受けていたら、
二人目の妊娠発覚。
夏、障害抱えた息子との向き合いに苦慮するうち、
二人目も男の子とわかる。
12月27日夜、妻の股間に出血あり、
病院へ行ったら切迫早産の危険でそのまま入院。
子宮の張りを抑える薬を常時点滴投与、終わるメドなし。

そんなわけで母と息子は離れ離れ、
父と息子はクレイマークレイマー状態の、かなりヘビーな年の瀬です。
そして、かなりヘビーな一年だった。

来年はどうなるか。
あとで笑いばなしに出来ますように。


2013年10月3日木曜日

手をつなぐ

三人で散歩に行った帰り、もう歩けないと道に座り込んで、
抱っこは無いよと親が先に行きかけるのを泣きながら追いかけて、
まあでも、どこかで抱っこしないとしょうがないなと
こちらが思っていたら、
おもむろ、妻と手をつないで、結局最後まで歩いた。






息子は、苦手なことがいろいろある。
そのひとつが親と手をつないで道を歩くことで、
だからこんな普通のことだがとんでもなく貴重に思えて、だから僕は写真を撮る。


春、息子が自閉症と診断された時は、目の前が真っ暗になるような気がした。
受け入れるしかないと頭でわかっていても、やはり受け入れ難かった。

受容。
受容とは、葛藤を制御することだ。

たとえば息子と同じくらいの子どもが、
多くの言葉を使って親と会話しているのを街で見かけるたび、
うちの子はどうして話せないのだろうと、
身を削られるような思いにとらわれる。
そんなふうに思っても何にもならないと自分に言い聞かせても、
どうしても思わずにいられない。
人並みであってほしいのだ。普通であってほしいのだ。
つまらない? いや、つまらなくなんてない。
だからせめて、そういう物思いを認めて、見つめて、制御する。
それが僕にとっての受容だ。


とはいえ、ようやく覚悟も決まってきた。
何があっても、家族を護る。
もういちど春が来る頃には、新しい子も生まれてくる。
いろんなことと、しっかり向き合っていきたい。


2013年3月25日月曜日

四人

「猫がいるんよ、うちに」
と、友達が言った。
「猫?」
「そう、ショートヘア」
「何歳?」
「5歳」

その夜、彼女が誘ってくれて、
東京タワーの近くにある中国料理の店で食事をした。
会うのは三年ぶりだった。

「それがね、前に一緒に住んでたひとの猫やねん」
「ほう」
「で、別れるときにね、猫をくださいと
 だめもとで言ったんやけど、これがあっさりオーケーで」
「うん」
「驚かない?」
驚かないな、と僕は思った。
「俺が誰かと住んでて猫を飼ってて、
 別れるときに猫をください言われたら、あげると思う」
「あっさり?」
「あっさり」
「そういうのって、変じゃない?」
「変じゃない」

前段、店に向かう路地で、
前を歩いている細身の黒いコートが目に入った。
姿勢が良くて、後ろ姿ですぐに彼女とわかった。

「仕事の帰りがいっつも遅かってん、そのひとが」
「うん」
「で、夜ね、いっつもベッドの端にいて」
「猫が?」
「猫が。ドアのほう向いて待ってるの。
 彼が出てったあとも、しばらく毎晩そうやってしてた」

大学時代、彼女と僕と、
彼女の当時の恋人と僕の前の妻は
京都の国際交流団体のボランティアで同期だった。
四人一組で、何かとつるんでいた。

「猫を残して出て行く」
と、僕は言った。
「それで、どこかで似た猫を見かけたとき、
 きみのことを思い出すことがあるかもしれない」
「彼が?」
「彼が。
 今どうしているだろうか、
 あの猫と暮らしているだろうか。
 男はそういうところあるよ」
「女は無いわあ、そういうの」
「そうやろうね」

大学時代、四人で何をしただろう。
サマーキャンプのボランティア部屋で、どうしていただろう。
僕と彼女がいつも何やら悪だくみで、
ひそひそ話して、げらげら笑って、
それを大概、彼女の恋人と僕の前の妻が見ていた。
彼らはどんな顔して見ていただろう?

「あなたたちが結婚したでしょう。あれ何歳?」
「二十六歳」
「ちょうどそのころ、私と彼はだめになって」
「そうね」
「やるせなかった。
 どうしてそっちはそうで、こっちはこうなのかって」
「正直やね」
「正直よ。で、離婚したやん。あれ何歳?」
「三十一歳」
「いい言葉が見つからないけど・・・
 そうね、納得したんよ」
「納得?」
「やっぱり・・・そうね、やっぱり。
 やっぱり四人ばらばらになったんやって」
「うん。わかるよ」

東京に出てきて十五年、
お互いの語尾やイントネーションに標準語がまざって、
どこの土地の言葉か不明瞭になっている。

「ああ、そうそう」
と言って、彼女が前の妻の名を口にした。
「子ども産まれたの知ってる?」
知っているわけがない。
「再婚したの?」
「したした。二年前かな。
 で、去年の十月に生まれた。男の子」
「去年の十月か。うちとちょうど2歳差やな」
「ねえ、どう?」
「どうって?」
「どう感じる」
「嬉しい。幸せでいてくれるなら嬉しい」

そうして僕らは四川だれの棒々鶏を食べ、
パクチーをのせたワタリガニを食べ、
つやつやした黒酢豚を食べた。
春の匂いがする夜だった。


2013年1月28日月曜日

スーパーマーケット

日曜の夜、仕事帰りに寄ったスーパーマーケットで、
一歳ぐらいだろうか、まだよちよち歩きの男の子が
興味津々、棚の間を歩きまわりながら、
ヨーグルトやらマヨネーズやら、
届くところの品々に、紅葉みたいな手を伸ばしている。
そのたびごと、
うしろについている心配顔の若いお父さんが、
さわっちゃだめ、持ちなさんなと注意するのだが、
男の子は訊いているような訊いていないような、
とうとう最後は500ミリのビール缶を両手で持って、
お父さんに正面向いて、どうだとばかり頭上に掲げた。
これには流石にお父さんも苦笑い、
それからベビーカーを押しているお母さんや、
夫婦のところへ遊びに来ているらしい
おじいさんとおばあさんも加わって、家族で大笑いとなった。
男の子は大いに得意、
彼が着ているコーデュロイの上着、
あれは老夫婦から孫へのプレゼントだろうか、
サイズは70か80、すぐにも着れなくなるだろうけど、
とても良いものに見えた。

僕が自分のビールをカゴに入れてレジへ持って行くと、
顔馴染みのパートのヨシダさんが、
その家族の様子に目を細めながら
「カワイイデスネ」
と、いとおしそうに言う。
ヨシダさんは日本の名字だが、
言葉に中国のアクセントがはっきりあって、
海を渡って嫁いできた人と思われる。
「ほんとにね」と僕も答えながら、
日曜の仕事の疲れも、いくぶん軽くなるような気持ちがする。

勘定を済ませて歩き出した先に、
3歳ぐらいの女の子を抱きかかえた若いお母さんが立っていた。
細いグレーのコートはどうやら仕事帰り、
延長保育に預けた娘をようやく迎えに行ったところだろう、
しかし女の子はどうにも不機嫌、
何をされても気にくわない様子で、
えんえん言いながら身をよじるから、
お母さんの持っているカゴが飛び出て通路をふさぐ。
それに気づいて、こちらに
「どうもすいません」と疲れた声で小さく言うので
「ちっともかまいません」
と、本当にそう思いながら答えると、
女の子はちょっと恥ずかしくなったのだろうか、
ぐずるのをやめて、こちらをじっと見ていた。

いとおしさもわずらわしさも、
みんなこどもがくれるものだ。
前はそうでもなかったが、今はそうだ。
顔を見たくて、急いで帰った。


2013年1月6日日曜日

雪国

雪国は今まで何回も読んでいる小説で、
何回も繰り返し読むということは
それだけ強く惹かれるものがあるということなのだが、
惹かれるからと言って、じゃあ好きかと訊かれると
好きというのは正直ためらわれる。後ろめたいからだ。 
確かに文章は呆れるほど美しく、
日本語表現の極北と言っていい。
そして、そのような極端に美しい文章で何が書かれているかといえば、
『美しいっていうのは、こういうことだよ』
ということの過剰なまでの例示であり、
その主要な部分は、『女という存在の美しさ』についての叙述で占められる。 
とりわけ強い印象を受けるのは、
このことを語るにあたって川端康成が
女という存在を、
徹頭徹尾『人』ではなく『モノ』として扱っているように見えることだ。
女の真剣な生き様や哀しみの発露を、
それこそ『美術品』として、微に入り細に入り『鑑賞』する態度である

『人のモノ扱い』、これは
西洋近代(モダン)の価値観からするとまぎれもない悪徳である。
だが、悪徳だからこそ強烈な魅力を発散することもまた事実で、
そこに後ろめたさが生まれる。
ここあたり、フランス革命期にマルキ・ド・サドが激烈に嫌悪された理由と
本質的に似ているところがある。
つまりは行儀の悪さへの憧れ、不健康な食べ物への渇望であり、
川端の場合、サドとの違いは、
非常に丹念に砂糖がけされていることだけだ。
このような『人のモノ扱い』を一例とする
『前近代=プレモダンの背徳』を通奏低音にしたやりかたは
現在に至るまで枚挙に暇が無く、
その後ろ暗い訴求力は、多くの人々を惹きつけ続けている。
それはたとえば村上春樹の諸作品の中にも色濃くあるし、
たとえばファイブスター物語のヒロインが人造人間であることもそうだし、
広く言えば、
砂糖がけをさらに徹底されて、『萌え』という概念の一部にもなっている。
きれいなところだけ抽出するということは、
つまり汚いところは全部捨てるということで、
人に対してそれをするには、モノとして扱うしかない。
そのような残酷を完全にやりきっているという点で、
雪国は再読のたびに感心する小説だ。
だが好きというのは、やはりためらわれる。
並外れて異常だ。
並外れて欠落している。
しかしそのように巨大な欠落こそが、才能なのだと強く感じる。