2013年1月28日月曜日

スーパーマーケット

日曜の夜、仕事帰りに寄ったスーパーマーケットで、
一歳ぐらいだろうか、まだよちよち歩きの男の子が
興味津々、棚の間を歩きまわりながら、
ヨーグルトやらマヨネーズやら、
届くところの品々に、紅葉みたいな手を伸ばしている。
そのたびごと、
うしろについている心配顔の若いお父さんが、
さわっちゃだめ、持ちなさんなと注意するのだが、
男の子は訊いているような訊いていないような、
とうとう最後は500ミリのビール缶を両手で持って、
お父さんに正面向いて、どうだとばかり頭上に掲げた。
これには流石にお父さんも苦笑い、
それからベビーカーを押しているお母さんや、
夫婦のところへ遊びに来ているらしい
おじいさんとおばあさんも加わって、家族で大笑いとなった。
男の子は大いに得意、
彼が着ているコーデュロイの上着、
あれは老夫婦から孫へのプレゼントだろうか、
サイズは70か80、すぐにも着れなくなるだろうけど、
とても良いものに見えた。

僕が自分のビールをカゴに入れてレジへ持って行くと、
顔馴染みのパートのヨシダさんが、
その家族の様子に目を細めながら
「カワイイデスネ」
と、いとおしそうに言う。
ヨシダさんは日本の名字だが、
言葉に中国のアクセントがはっきりあって、
海を渡って嫁いできた人と思われる。
「ほんとにね」と僕も答えながら、
日曜の仕事の疲れも、いくぶん軽くなるような気持ちがする。

勘定を済ませて歩き出した先に、
3歳ぐらいの女の子を抱きかかえた若いお母さんが立っていた。
細いグレーのコートはどうやら仕事帰り、
延長保育に預けた娘をようやく迎えに行ったところだろう、
しかし女の子はどうにも不機嫌、
何をされても気にくわない様子で、
えんえん言いながら身をよじるから、
お母さんの持っているカゴが飛び出て通路をふさぐ。
それに気づいて、こちらに
「どうもすいません」と疲れた声で小さく言うので
「ちっともかまいません」
と、本当にそう思いながら答えると、
女の子はちょっと恥ずかしくなったのだろうか、
ぐずるのをやめて、こちらをじっと見ていた。

いとおしさもわずらわしさも、
みんなこどもがくれるものだ。
前はそうでもなかったが、今はそうだ。
顔を見たくて、急いで帰った。


2013年1月6日日曜日

雪国

雪国は今まで何回も読んでいる小説で、
何回も繰り返し読むということは
それだけ強く惹かれるものがあるということなのだが、
惹かれるからと言って、じゃあ好きかと訊かれると
好きというのは正直ためらわれる。後ろめたいからだ。 
確かに文章は呆れるほど美しく、
日本語表現の極北と言っていい。
そして、そのような極端に美しい文章で何が書かれているかといえば、
『美しいっていうのは、こういうことだよ』
ということの過剰なまでの例示であり、
その主要な部分は、『女という存在の美しさ』についての叙述で占められる。 
とりわけ強い印象を受けるのは、
このことを語るにあたって川端康成が
女という存在を、
徹頭徹尾『人』ではなく『モノ』として扱っているように見えることだ。
女の真剣な生き様や哀しみの発露を、
それこそ『美術品』として、微に入り細に入り『鑑賞』する態度である

『人のモノ扱い』、これは
西洋近代(モダン)の価値観からするとまぎれもない悪徳である。
だが、悪徳だからこそ強烈な魅力を発散することもまた事実で、
そこに後ろめたさが生まれる。
ここあたり、フランス革命期にマルキ・ド・サドが激烈に嫌悪された理由と
本質的に似ているところがある。
つまりは行儀の悪さへの憧れ、不健康な食べ物への渇望であり、
川端の場合、サドとの違いは、
非常に丹念に砂糖がけされていることだけだ。
このような『人のモノ扱い』を一例とする
『前近代=プレモダンの背徳』を通奏低音にしたやりかたは
現在に至るまで枚挙に暇が無く、
その後ろ暗い訴求力は、多くの人々を惹きつけ続けている。
それはたとえば村上春樹の諸作品の中にも色濃くあるし、
たとえばファイブスター物語のヒロインが人造人間であることもそうだし、
広く言えば、
砂糖がけをさらに徹底されて、『萌え』という概念の一部にもなっている。
きれいなところだけ抽出するということは、
つまり汚いところは全部捨てるということで、
人に対してそれをするには、モノとして扱うしかない。
そのような残酷を完全にやりきっているという点で、
雪国は再読のたびに感心する小説だ。
だが好きというのは、やはりためらわれる。
並外れて異常だ。
並外れて欠落している。
しかしそのように巨大な欠落こそが、才能なのだと強く感じる。