2012年6月29日金曜日

ベージュの絨毯

夜勤明けで家に帰って
薬を飲んで寝た
夜に起きて
薬を飲んでまた寝た

夢を見た

若いころの自分と
若いころの友だち何人か
ベージュの絨毯が敷かれた部屋でだらだらしている
蛍光灯がついている
昼か夜かわからない

ふと気づくと
となりの女ともだちは猫だった
つやつやした銀の毛並み
体を動かすと
風が稲穂をわたるように
光の沢が美しい

ふかふかした腹に
顔をうずめて抱きついた
拒まれるかと畏れたが
彼女がふうと息をして
むしろちからを抜いたので
すっかり気をよくしてますますもぐりこんだ

ほかの女ともだちの声がした
「好きになっとるの?」

猫のともだちが言った
「好きになってきたわ」

僕はいよいよ気をよくして
「もうだめや、なんもできへん」

すると猫のともだちは
「だめやない、しっかりしなさい」

その途端、僕はひとりになって
ごうごう移り変わる景色に浮かんだ
神社の長い階段
河川敷のシロツメクサ
あの交差点のケヤキの並木
学生食堂の唐揚げ冷麺

そしてあのベージュの絨毯の部屋で
女ともだちがひとり
プロジェクタを壁に投射して映画を観ていた
女ともだちは
もう猫ではなかった

映画の中では
白いTシャツのやせた少年が
左の肩に唐草模様のストラップをかけて
うつむいている
あれはギターを弾いているらしい

少年は僕のように見えたが
僕ではなかった
そのまま夢がさめるにまかせた


2012年4月18日水曜日

春の死について

高校の後輩が春に死んでから
もうすぐ一年になるものだから、
彼女がSNSに残した日記などをつらつらと見る。
見てしまう。

全般、
春に心が悪くなりやすいのは本当のことで、
四月の精神科外来は毎年、明らかに混雑する。
付き添いの母親の呼びかけに皆目こたえない若い誰かの焦燥した横顔や、
ストレッチャーに拘束されて運ばれていく
若いのか若くないのかもわからない誰かの
そこだけあらわな汚れたスニーカーなどを眺めながらやりすごす待合は、
それだけで非常に消耗する。してしまう。

会社の同期もひとり、四月に死んだ。
もうあれは十年以上前のことだが、
十年前の僕はまだ相対的に健康だったので
彼女がなぜ死んだのか、切実には理解できず、
ために、
その死を哀しんだり悼んだりすることも容易かった。

それが去年、後輩が死んだときは
もうなにもかもすっかり変わってしまっていて、
彼女が生きているのと死んでいるのと、
その境目にふらふら立って
何かの加減、あちらがわに飛び降り消えていく瞬間の心持ちを
自分の感覚としても
あまりに近く知りすぎてしまったため、
哀しいというより、第一おそろしかった
よくもまあ、自分は死なずにすんだものだと

そして僕は、
第一おそろしいと思った自分を恥じたし嫌悪した。
今も恥じているし、嫌悪している。

SNS上の後輩の日記は
法科大学院に通っているころから始まっていて、
落ち込んだり、元気になったり
文面から読み取れる感情の起伏も
最初のころは至極尋常な範囲のものだが、
それがやがて、今にしてみると
尋常ではなくなってくる。

本格的な療養に入って以後は
更新の頻度が数か月に一度になり、
次の日記、次の日記とクリックすると
記録された時間は加速度をつけてびゅんびゅん過ぎ去り、
そして突然

『これ以上、日記はありません。』

一瞬、虚を突かれた。
見てはいけないものを見たように感じた。

見てはいけないものなどであるはずがない、
見てはいけないもののように感じるのは
自分が恥じているからだ。
そのうちこのような物思いも
春がめぐるごと、濃度を失っていくだろう。
だが今年の春はまだ、物思わずにはいられない。


2012年2月11日土曜日

夜

ねえ、きみはまた調子が悪いだの、わけもわからず涙が出てしまうだの、
物が考えられないだの体が動かないだの、
相も変わらずそういうこと僕に訴えてくるわけだけど、
正直なところ、もううんざりしているんだ。
そろそろいいかげんにしてもらえないかな。

  冷たいじゃないか。きみは僕なのに。

確かに僕はきみだけど、きみは僕じゃないんだよ。
ねえ、そもそもの話、きみには良くなろうという気があるのだろうか?
僕はその点、おおいに疑いを持っている。

  どういうこと?もちろん僕は良くなりたい。

忌憚なく言わせてもらえば、
それは嘘ではないかと僕は思っているわけなんだ。
つまりきみは病気でいたい、病気と名のついた状態でいたい、
病気であると精神科医に診断され続けたいとね。
ひらたく言うなら
きみは病気に、病気である自分に耽溺しているんだよ。

  そんなことはない。
  もう通院して5年だ。
  抗鬱剤やら安定剤やら、ああいう薬を飲むのもいやだ。
  寛解したい。

寛解!
ちょうどいいところでぬるい言葉が出てきたからこの機会に言うがね、
いいかい、きみはしんどいつらいと言いながらも、
ほとんど毎日、結局は都心に出社してるじゃないか。
ねえ、
どうやっても、どのように藻掻いても体が動かないのが病気なんだよ。
そういう意味じゃ、何となればきみはもう寛解しているのさ。

  ・・・

どうだい、寛解していると言われると
不安になるだろう。
きみは寛解なんて望んじゃいない、
寛解という状態に至るのが怖いんだ。

  そんなことは断じてない。

どうだかね。

  どうやっても体が動かない時はある。
  いつも崖の側面の細道を歩いている感覚なんだ。
  注意していても時々踏み外して落ちる。

しかし代わりが効かない、効きにくい日にかぎって
そういうことは起こらない。
きみは細道を崖にむけて踏み外さない。
踏み外したとしても、どうにかこうにか這い上がってくる。
要は甘えなんだよ。
まわりの人も腹の中ではそう思っているさ。

  ・・・きみは手厳しい。きみは僕なのに。

こんなもの、手厳しいうちに入るかね。
おめでたくも無防備、考えすぎて袋小路、
きみは昔からちっとも変わらない、
表面だけでも変えようと快活に振る舞って、結局疲れて放り出して
この体たらくというわけだ。
そんなことだから、ほら、
黒いあの犬だって
あんなに大きくなっていつまでもあそこに座っているのさ、
どうだい、追い出せないならせめて
かわいがる気にはなれそうかい。
わかっているとは思うけれど、あの犬だってきみなんだよ。

  そしてきみも僕だ。

そう。僕はきみだ。でもきみは僕じゃない。
そんなわけで今夜は、久しぶりに犬と向き合って過ごしたまえ。


2011年12月21日水曜日

続いている

先週日曜、京都大学ハイマート合唱団
50周年記念定期演奏会のOBOG合同ステージにて、
モーツァルトの戴冠式ミサを歌いました。
素晴らしい一日でした。
総勢280名の合唱は非常にポジティブなもので、
歌っているあいだじゅう
ぞくぞくとする楽しさがありましたが、
個人的には
演奏終了後、今年の定演委員長が
万雷の拍手を受ける様子を後ろから見ていた時、
一番ぐっときました。
私自身が定演委員長をやったのは
17年前、1994年のことで、
今回のような大がかりな演奏会ではありませんでしたが、
それでもステージで受けた拍手の味、
感じたカタルシスは今でも鮮明に憶えています。
否応なく当時が思い出され、
否応なく、当時の自分と重ね合わせる。
続いているのだ、ということを強く感じました。
続いているのはもちろん喜びや充足感だけではない、
徒労も、反目も、後悔も失敗もそれぞれに続いている。
しかしいずれにしても、
続いてきて、続いていて、続いていくということは
ひとりひとりにとってどんなに素晴らしく貴重なことだろう、
そして自分が
連綿と続くその流れのひとかけらであるのは
なんと気持ちの良いことだろう、
そんなことを思いました。
『流れの一部であること』を
肯定的に感じるというのは、
以前の自分を省みれば意外な心境の変化ですが、
やはり息子が生まれたから、というのはあると思います。
今回、兵庫県芸術文化センターの広々としたロビーで、
靴を履いて歩く息子の姿を初めて見ました。
楽しそうに声をあげながら心あてに進んでいく息子の
後ろや横に伴いながら、
自分の中に新しい感情がやってきているのを感じました。
年をとったといえばそれまでだが、
年をとることは退化を意味しない
時を経るごとに、深くしっとりとする
節目の演奏会を創った現役の方々、
伊吹新一先生の名のもとにつどったOBOGの方々、
ハイマートの五十年に感謝します。
そして、病のため降板された伊吹先生の御回復を祈ります。

2011年10月10日月曜日

遠い三月の水

だいじな人はゆっくり離れる。
手のひら返したように急速に離れていく人は、
そもそもだいじな人じゃない。

ゆっくり行われる離別は酷だ。
体の奥のほうをどろどろにされて、
それを抜き取られるように苦しい。
でも、それをわかっていながら
こちらがだいじな人から離れるときだって
やっぱりゆっくりやる。
ためらうので。


きのう品川で、妻と息子が
僕の母と会った。
僕は母に会いたくないし、会わない。
顔を見たくないし、声を聞きたくない。

もうすぐ一歳になる息子を見て、
母は僕に似ていると、
僕の父に似ていると話し
泣いたという。
僕は少し自問する。
そろそろ許すわけにはいかないかと。
それは罪悪感だ。
しかし再び頭の中は
母に対する暗い怒りで嵐のように満たされ、
まだ時期でないと憂鬱に告げる。

アントニオ・カルロス・ジョビンの
「三月の水」を久しぶりに聴いた。

A stick, a stone, the end of the road
The rest of a stump, a lonesome road
A sliver of glass, a life, the sun,
A knife, a death, the end of the run
And the riverbank talks of the waters of March,
It's the end of all strain
It's the joy in your heart

棒きれ 石ころ 道の終わり
切り株に腰かける さびしい道
ガラスのかけら 人生 太陽
ナイフ 死 走るのをやめる
そして川岸が語る三月の水
それは苦しみの終わり
それは心にうまれる喜び

すごい歌だ。
でも遠い。
このような心持ちに
いつかは、近しくなれればよいと思う。


2011年2月8日火曜日

男の子の失敗

八幡山駅の改札の脇、券売機のあたりで
近くの高校のブレザーを着た男の子と女の子が
向かい合ってなにごとか話していて
二人の鼻と鼻のあいだには紙一枚ぐらいの隙間しかない

男の子は茶色の髪を後ろになでつけて
アルミのママチャリにまたがっている
女の子の髪は栗色で、肩のところまでまっすぐ伸ばし
グレーのスカートの丈はとても短い

女の子がいったんさよならと手をふって改札に向かう
男の子はそのまま見送るらしい
と、女の子が小走りに戻ってきて
かばんから取り出した菓子パンのようなものを
男の子の自転車の前かごに入れた
そうしてふたり笑う

声が途切れて、女の子はちょっと目を伏せ
それから、もういっぺんさよならと手をふって
今度は改札をくぐった
券売機は改札の脇
券売機の前にいる男の子からは、改札の入口までしか見えない
女の子が視界から消えると
男の子はポケットから携帯を出した
そのまま誰かと話しはじめた

だが女の子は
改札の内側から身を乗り出すようにして
まだ男の子を見つめていた

そしてしばらくそのまま

どうやら男の子が気づきそうもないので
やがて女の子は諦めたように踵を返すと
エスカレータを上がっていった

男の子にしてみれば
失敗をしたという認識も無いだろうし
認識したところで
ほんの些細なことだと思うのみだろうが
それは明らかに致命的な失敗だった

駅で女の子を見送る時は
男の子は改札の奥まで見通せる位置に立って
女の子がそこから見えなくなるまで
彼女がコンコースの奥のほうへと消えるまで
じっと注視しているべきだ
きみのことを好きなら
女の子は何度でも振り返るだろう
そしてそのたび
にっこり笑って手を振り返すだけでいい
そんなに難しいことじゃない

ただ、難しいことじゃないので
周りの人はわざわざ教えてはくれない
だから大概、ずっとあとになって気づく
あれは致命的な失敗だったと
あるいは、あとになっても気づくことさえ無い
たとえば恋の終わり際に女の子が教えてくれたなら
ずいぶん運の良いことだろう

女の子が本当に去ったあとも
男の子は同じところでママチャリにまたがったまま
電話の相手と話していた
とても楽しそうだった


2010年10月19日火曜日

青

きみが生まれたことを
きみのおばあちゃんに知らせるために
電話を持ってエレベータホール
大きな窓の外に広がる午後の曇り空から
久我山の駅のあたりにむけて
ほそい日差しがふたすじおちた

きみのひいおじいちゃんが、朝に亡くなったと聞いた


びりびりとからだに響いた
大きな大きなきみのうぶごえ
ずっとおぼえているだろう

2010年10月19日
男子、3216グラム
名は「青(あお)」





2010年9月11日土曜日

携帯ビートニク

ある日の 「あ」の 「予測候補」
・
・
・
・
・
アンチ 遊びに ありがとう
あたたかい あたりで あったかなあ
アタック アドレス アジア 阿佐ヶ谷
会いたい 会えなくて 敢えて
ありました あー 雨の アルト
アフタヌーン 愛し合いたい 歩く
安心 朝が 暑さで 赤坂
あなた あるいは 雨


2010年8月8日日曜日

フィッシュマンズについて

フィッシュマンズを知った時、佐藤伸治はもう死んでいた。
どこかで名前を耳にしたことくらいはあったかも知れない。
1999年の夏に、渋谷のHMVで「Aloha Polydor」をジャケ買いして、
その夜聴いた1曲目の「IN THE FLIGHT」にいきなり引き込まれた。
ガラス細工みたいな音だと思った

佐藤伸治が33歳で死んだのはその年の3月で、
「Aloha Polydor」は、追悼のベストアルバムだった。
僕は東京に出て来て3年目、25歳、
経堂にアパートを借りていたがほとんど帰らず、
当時の恋人が住んでいた松原の部屋で寝起きしていた。
自分で買って持ち込んだ安いCDラジカセで、
寝入りばなに毎晩聴いた。
聴きながら暗い天井を見上げていると
なんにもないところに沈んでいくような心持ちになって、
眠れたり、
眠れないにしても、不思議と落ち着いた気分になった。
でも恋人は、佐藤のファルセットが怖いと言ってあまり気に入らず、
僕は仕方なく夜な夜なボリューム下げて、
最後には、最小音量のスピーカーに耳押し付けるようにして、
それでもずっとかけていた。

ボタンひとつ押すと、何も聴こえなくなってしまう。
そして反対のボタンひとつ押すと、
夜の中なら、ちゃんと聴こえる。
それはそれで、また良いと思った。

秋になったころ、最後のライブを収録した「男達の別れ」が出た。
Disc2の「Long Season」に圧倒され、アルバム全部買い揃えた。


それからもう十年だ。
その恋人と結婚して、離婚した。
あれこれ贅沢な悩みに溺れているうちに、
佐藤伸治より年上になった。

フィッシュマンズは今に至るまでずっと好きで、
折にふれて聴き返してきたが、
感じ取るものは変わったと思う。

25歳の時、僕にとってフィッシュマンズは
自己愛を代謝するチャンネルのようなものだった。

「ドアの外で思ったんだ あと十年たったら
 なんでもできそうな気がするって
 でもやっぱりそんなの嘘さ やっぱり何もできないよ
 僕はいつまでも何も できないだろう」
(「IN THE FLIGHT」)

このような言葉を歌う佐藤伸治の細い声に、
僕は自分の過剰な自己愛を重ね合わせて存分に酔った。
そして癒された。
まだ十分に傲慢で、今にして思えば余裕のある時期だった。
ああ、ここに僕の気持ちを代弁してくれている人がいるなあ
この人は僕とおんなじだ


実際に十年たって、
このような言葉に酔ったり癒されたりすることはもう無い。
何ていたたまれない歌なのだろうと思う。
「感動的に」、いたたまれない歌であると思うのみだ。

佐藤伸治が歌ったのは、
たとえば絶対的な孤独、孤独を避けがたい人生に対する諦念、
そこで泥まみれになることを避け、
浮遊するように処世する「術」と、その「薦め」などだろう。
その言葉を鵜呑みにして、僕はしたたか酔っていたわけだ。

しかし、そのような消極の極みを本当に是とする人ならば、
それを歌にして世に問うにあたって
あんなにやせ細って幽霊みたいになるものだろうか。

フィッシュマンズの音楽の奥に刻み込まれているものは、
そういう孤独や諦念や消極や処世を見つめた上で
それらと「対峙」したいと望んでいた
佐藤伸治の壮絶な「葛藤」なのだと、今は思う。

佐藤伸治は、その並外れた透徹な目でもって
くそ真面目にいろんなものを見て受け取って、
くそ真面目にそれらと折り合いつけようと
もがいて、結果的に疲弊していったように思えてならない。
折り合いをつけよう、つけることが出来るとまだまだ挑んでいるのが
1996年の「空中キャンプ」のころ、
そして疲弊しつつあるのが
1997年の「宇宙 日本 世田谷」のころではないかと
僕には感じられる。
この二枚と、二枚の間に出た35分1曲のアルバム「Long Season」は
90年代を代表する名盤と世評の誉れ高いが、
個人的にはいつも
最後の「宇宙 日本 世田谷」にとりわけ強い印象を受ける。
終曲「daydream」の痛々しさは、特に衝撃的だ。

「死ぬほど楽しい 毎日なんて
 まっぴらゴメンだよ
 暗い顔して ふたりで一緒に
 雲でも見ていたい」
(「daydream」)

伴奏が必死に、それではダメだと叫んでいると
今は感じる。
かつて、これを聴いて「癒された」などと感じていたなんて、
個人的には、非常に恥ずかしい思いがする。


2010年1月11日月曜日

夜明け前

年末から年始にかけて読んだ。

島崎藤村の父・正樹は
幕末から明治への激変を木曽で生きた人だった。
家業は中山道の宿場の役人であり、
江戸幕府による統治システムの一部を担っていた。

一方で、彼は国学者だった。
国学、特に
彼が学んだ平田篤胤の国学は
「江戸幕府を倒して天皇に政権を戻す」
という「倒幕」の動きに
思想的な背景として大きな影響を与えた学問である。

実に矛盾をはらんだ境遇だ。

しかし、時代の急展開は
この矛盾を解消する方向へと進むかに見える。
三十代半ばで明治維新、
政権は、武士から天皇へと戻った。

ところが日本のシステムは、今度は急激に「西洋化」する。
この「西洋化」がまた、
彼の信条=平田篤胤の国学と相容れない。
それでも地域の代表として
人々の生活の改善に奔走するが
ことごとく何の成果も挙げられず、
深い失望の中、
五十代半ばで狂死する。

「夜明け前」は、このような父の生涯を通じて
藤村が
「明治維新とは何だったか」を世に問うた大作である。
連載の開始は昭和4年、
折しも
明治維新によって生まれた
「大日本帝国」というシステムが
第二次世界大戦での大崩壊へと向かっていく
とば口だった。

重い。しんどい。
読みにくい。
だがこのような
いわば「歴史との闘い」を試みたものが
軽く読みやすいはずもない。

藤村の父は当時の知識人であり、
当然、
時代の激変の只中にあって
何も考えずに身を任せるがままでは
いられない人だった。
「自分に何が出来るか」と考えざるを得ない人だった。
そして、何も出来ずに終わった。

そんな父の人生を見つめる藤村のまなざしは、
去年、村上春樹がエルサレムで行った
「壁と卵」のスピーチを思い起こさせる。

  「高くてかたい壁があり、
   それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
   私は常に、卵のがわに立つ」
  「その壁がどんなに正しく、卵が正しくないとしても、
   私は卵のがわに立つ」

藤村の父は、壁にぶつかって壊れた卵であった。
そして藤村は、
父の思想、行動、人生が
「正しかった」とは決して言わない。
ただ、寄り添うのみだ。

真摯である。