2020年2月13日木曜日

回転寿司

 回転寿司のボックス席、
長男と次男がそれぞれ、レーンの脇に座った。
通路側から奥を見て、左に長男、右に次男だ。
すると長男が「あ」と立ち上がり
「マチガエタ。ダイクンカワッテ」

「イヤだよ」
と言って次男は靴を脱ぎだす。
「どっちでも一緒でしょう。代わってあげて」
「イヤだよ」
「ダイクンカワッテ」
「イヤ」
「橙、青は自分をゆずれない。お前がゆずってくれ」

次男がハアッと溜息をつくと、
テーブルの下に潜り、反対側から出てきた。
空いたところに長男が座った。

次男はしばらく俯いていたが、
顔を上げてこちらと目が合うと、だんだん泣きっ面になってきた。
「おいで」と通路に連れ出し、
待合用の椅子に座って膝へ乗せると、私の胸に顔をうずめて
「代わるのイヤだったよう」
と言って泣いた。
右に座るか左に座るかは小さなことだが、
この先何度「お前がゆずれ」と彼に言うのだろうと、
その物思いが頭に満ちて
「わかるよ。ごめんな」としか言えず、背中を撫でていた。

ちょっと落ち着いてきたので
「たまご食べる?」と訊いたら、顔を押しつけたまま、ぐっと頷いた。
それから起き上がって
「ポテトは?」と訊いてきた口もとは、少しだけ笑っていた。
「食べようぜ」と言って、二人で席へ戻った。



2020年1月30日木曜日

解毒

雨の帰り道、世田谷線を待つ長男を凛々しく思って眺めていたら、
彼の奥のほう、二十数年前に住んでいたアパートが目に入った。
正確には当時の恋人が借りていた部屋で、私は転がり込んでいただけだが。

東京に出てきたばかりの自分を思い返すと苦しい。
就職面接で長所を問われ
「どんな状況でも楽しむことができることだ」
と何の疑いもなく答えていたのに、
翌年の春にはもう、理由のわからない疲労に苛まれるようになっていた。

今にしてみれば、
それは新生活のストレスなどといった表層に起因するものではなくて、
もっと致命的な性質を孕んだ毒だったのだとわかる。
十代の大きな部分を家族の介護のために削ったこと、
そして、それを当然のこととして扱われたこと。
転がり込んだアパートの恋人と結婚して、離婚した。
二十代の私は傷ついていたが、彼女のことも傷つけてばかりだった。

夜の寝室、隣で横になった長男が、おやすみと呟いたあと、
私の右手をそっと握って、自分の胸のほうへ引き寄せた。
母親がまだ水仕事の最中で、
こちらへ来ない寂しさをまぎらわすためにしていることだと重々わかっているのに、
私は、長男も含んだ何か複合的な存在が、
私を抱き留めてくれているような感覚に包まれた。

彼が寝入るにつれて、指先の力が段々抜けていくのを見ていた。



2019年12月1日日曜日

私のようだ

 子供達の寝かしつけの最中
「ねえ、橙が泣いているのよ」
と、妻が言った。
右隣の次男を見ると確かに、
両手で目を覆って、口をへの字にひん曲げている。

うちでは本来、長男の青と私、次男の橙と妻の組み合わせで寝ているのだが、
寝かしつけの時は長男も「ママそばにいて」と強く主張するので、
彼らが寝入るまではたすき掛けで、
長男と妻、次男と私で横になることが多い。
別段、次男のほうがそれを嫌がる様子は、今まで無かったのだが。

頭を撫でながら
「ママがいいか?」
と訊くと、うなずく。

「パパよりママがいいか?」
「・・パパよりママがいいよ」
「なかなか残酷なことを言う」
すると向こうの妻が
「言ってくれなきゃわからないよ」
言えないよなあ、と思う。
「言えないよなあ、わかるよ」男だからね。

程なく青が寝入ったので、妻と交代しようと起きた。
妻が橙に
「パパにありがとうって言いなよ」
「・・ありがと」
「いいさ」

これが男親というものかなあ、と、自分の寝床に入りながら思う。
悲哀なのか醍醐味なのかわからない。
でもこういう気分は嫌いじゃない、男だから。

私は家族みんなを愛しているが、今はとりわけ、次男のことが気にかかる。
君はにいにのこと、よくわかっているんだね。
それで我慢して、我慢しきれなくて、まるっきり私のようだ。

泣きたい。



2019年11月9日土曜日

ちがうみち

 朝、送迎バスの停留所へ向かう道、
いつもは真っ直ぐ進む四つ角で、先を歩く長男の青が突然左へ折れた。
万事ルーティンにこだわる自閉症児なのに、
どうしたことかと驚いて追いかけたが、本人は別段惑う様子も無く、
少し遠回りしてみながら目的地へ向かう、それだけのことのようだった。

バス停の目前の信号を、長男が渡ったところで赤になった。
すると対岸の私に振り向いて、誇らしげに

「アオくん、チガウミチイッタ!」

頭の中をびゅうっと風が吹き抜けたように感じ、
彼が三歳だった頃、育休中の記憶が蘇った。
毎日の散歩、決まった順路を、一軒ごとに門扉をいじりながら進み、
少しでも違えば泣き叫んで道に転がっていた子だ。
同じ子が六年後、
自分からすすんでルーティンを崩し、それを楽しんでいる。

「すごいなあ」と小さく口にしたあと、
行き交う車の音に負けないように

「すごいなあ青、すごいぞ!」

語尾が少し震えた。
満面の笑顔を見ながら、仕事に向かうのが惜しかった。


2019年4月5日金曜日

疎遠

四月五日は母の誕生日で、彼女は七十九歳になった。
郷里の尼崎で、一人で暮らしている。

私は大変な難産の末に生まれたひとりっ子で、
家族は七十年代後半から九十年代前半にかけて、
親子三人に母方の祖母を加えた四人暮らしだった。
私が子供の頃、母は折に触れて
「男の子は大きくなったら独立しなきゃ。いつまでも親の脛齧りはみっともないわ」
と口にしていた。

高校三年の時に父が死に、大学一年の時に祖母が死んだが、
私は母の口癖を真に受けていたので、
大学二年の時、一人暮らしをすると彼女に告げた。
「割のいいバイトを掛け持ちしているから、仕送りの必要は無いよ」

母は一瞬、虚を衝かれたようだったが、
みるみる鬼のような形相になり
「お前までわたしを置いていくのか」
と叫ぶように言った。
私は非常に混乱したが、何とか認識を新たにした。
「この人はもう私の保護者ではないのだ。私がこの人を保護しなければならないのだ」
私は諦め、卒業まで、尼崎から京都へ通った。

今にしてみれば、当時の母の気持ちは判る。
だが、彼女は決してそのように反応するべきではなかったし、
同時に、私も決してそのように応じるべきではなかった。
母は私に、死んだ夫を投影するようになった。
私は母から離れるため、東京での就職を望んだ。

その後も色々なことがあって母とは決定的に疎遠になり、
そして今に至っている。
生活費の仕送りをするだけだ。
この先、彼女が介護を必要とする状況になっても、私は同居するつもりが無い。
しかし、彼女を「大人になりきれなかった人」と捉えて、
かわいいと思うことくらいなら出来るかもしれないと、最近は考える。
不遜な物言いだろうか。

朝、最寄り駅に向かう途中で、
母に「誕生日おめでとう」とメールを送った。
すぐに「ありがとうね」と返信が来た。
語尾には、桃色に笑った絵文字が付いていた。




2019年2月3日日曜日

古い荷物を整理していたら、実家のバーの写真が出てきた。
ひょっとすると二十年くらい前だろうか、もう亡くなった常連の姿もある。

屋号は「駅」と言って、大阪北区堂山の雑居ビルの三階にあった。
コの字のカウンターだけの店で、
父が死んでからの十数年は、母がひとりで切り盛りした。

この写真は誰が撮ったものか判らないが、
夜の酒場の楽しさが匂い立って、いい気分にさせてくれる。
二十代の自分の顔に映る
「もう坊やじゃないぞ」という気概も微笑しい。

粋な大人の振る舞いかたと、酒に飲まれる格好悪さの、
両方教えてくれた場所だった。





2018年9月8日土曜日

ゴクロウサマ

金曜、五営業日の締めで夜遅く帰ると、子供はさすがに寝ていた。
新学期の疲れもあって、待ちきれなかったのだろう。

朝、療育のため長男と家を出ると、自転車の後ろの席から

「パパ、オシゴトイッテタ?」
「ああ、行ってた」
「オカエリ」
「ただいま」
「パパ」
「なあに」
「ゴクロウサマ」

すごいな、どこで覚えたの、などと言おうとしたが、
自分でもびっくりするくらい嬉しすぎて、結局何も言えなかった。



2018年8月27日月曜日

新しい力

長男が、いわゆる「普通の子供」ではないと判ってから、
(空回りや遠回りに満ちた)「受容の過程」というやつを経て、
とにもかくにも長男との向き合いを人生の中心に置き、
他のあらゆることに優先させると腹の底から決めて、ここまでやってきた。
だから、自分の楽しみに自分の時間を割くことに、
(たとえば外でビールを飲むことにさえ)罪悪感を持っていた。
しかし最近は、心持ちも変わりつつある。

今年になって、昔のバンド仲間との音楽を再開したが、
ちょっと前なら誘いを受けても、おそらく断ってしまっていただろう。
「やってもいいかな」と思えたのは、
第一には長男が、こちらの想像を遥かに超えて成長してくれているから、
そして第二には、妻が
「それはあなたにとって大切なことだから、やったほうがいい」
と言ってくれたからである。

日曜夕方、家族四人で、
地元・八幡山小学校の父親会主催の花火大会へ行った。
長男が通っている学校でもないし、行く前は少し億劫だったが、
校庭に三百家族以上が集まる盛況、
幼稚園時代の同級生や親御さんも声を掛けてくれて有り難かったし、
手作りのナイヤガラまでやってしまう、実行委員会のお父さん達の気合も痛快だった。

帰宅してから、何の気なしに
「子供はかわいいね、他所の子だってかわいく思う」と呟いたら、
妻が「そうね、今そう思えるのは幸せね」と言った。
ここ数年、家族で進んできた細い道のことが思い出された。
今、道幅は広がり、視界は開け、私達は手を繋いでいる。
長男が花火の楽しみを覚えるように、
自分も新しい力を蓄えようと、強く思った。



2018年1月25日木曜日

ワカッター

月末に税務署への調書提出を控え、作業量が多い。
職場から妻へ電話した。

「ごめん遅くなる。青は?」
「パパとお風呂入るって言ってる」
「直接話してみるよ」

妻が端末を息子に向けると
「パパー!」
「おー青くん、元気?」「ゲンキー」
「ごめん青、パパ遅くなっちゃう。お風呂、先に入ってくれないかな」

間。

「パパトオフロハイルー」
そこへ妻が助け船、
「パパ遅いって。橙ちゃんとママと、先にお風呂入ろ?」

間。

「ワカッター」
「わかったの(驚)?」
「ダイシャンママアオ、オフロハイル。ワカッタ」
「すごいねえ。ごめんね青」
「イイヨー」

切った後、廊下で暫くぼうっとした。
本当のところ、わかってくれると期待していなかったからだ。
期待していなかった自分を恥じた。

帰宅すると、明かりを落としたリビングには誰もいない。
寝室へ行ったら、ベッドに座った青がさめざめと顔を覆っているので
「どうしたの?」と妻に聞くと
「パパ帰るまで寝ないって、泣いちゃって」
胸がぐっと締め付けられ
「ごめんな。パパ帰って来たよ」
すると手を降ろし、はあっと息をつくと、横になって
「オカエリイ」
「ただいま」

子供に与えてもらう幸せを全身に浴びた。
でもそれに耽るのも違う、親なのだから。
「パパアシタ、オムカエ?」
「うん、明日お迎え、遅くないよ。帰ったら、パパとお風呂に入ろうね」


2017年9月27日水曜日

伯父に寄せて

伯父が急に亡くなり、京都での告別式に参列した。実感がわかない。
八十三歳なら、ままあることとは思うけれど。

浜崎満は母の兄で、俳優だった。一人芝居と長く取り組み、
バリー・コリンズの大作「審判」をライフワークとして、二百数十回上演した。
戦時下のカニバリズムを主題としたモノローグドラマで、
私は三回観たが、いろいろと理解できたのは最後に観た時、
自分が二十歳の頃だったかと思う。
ハコは京都府立芸術文化会館、鬼気迫るものを感じて、
上演後の楽屋で我知らず敬語になってしまい、本人にいぶかしがられたのを憶えている。

2003年、一連の実験映画で知られる高林陽一監督の「愛なくして」に出演し、
東京ではポレポレ東中野で上映された。
ちょうどその頃、自分も筑紫哲也NEWS23の仕事を通じて
ポレポレの支配人・大槻貴宏氏と知り合い、よく話題にのぼった。

伯父は芸術に生きた人であり、生活者としては生涯無能だった。
寝食を人に頼るその生き方に反発を覚え、この十年はまるで会わなかった。
しかし、今日の精進落としで長年の仕事のパートナーである
遠藤久仁子氏(「愛なくして」のプロデューサーでもある)から、
「俺は駄目な人間だ」と葛藤していたとの話を聞き、その真面目さと不器用さを思った。
常に自分を優先し尽くした八十余年だったが、
どうあってもそのようにしか生きられない人だったのだろう。

私の父と母は、伯父を介して知り合った。
父は大阪の劇団・関西芸術座の創立メンバーで、結核を患い俳優を辞めたあと、
梅田の劇場・オレンジルームの支配人などをした。
母と出会ったのは演劇関係者のパーティー、
母は伯父に頼まれ、たまたま手伝いに来ていたのだという。
私の記憶の中の父と伯父は、
鍋をつつき酒をあおりながら、四六時中芸術論をたたかわせていた。
血の繋がった実の兄弟のようだった。二人とも若く元気だった。

古いアルバムを開くと、
結婚した当初、今の私よりも若い父と母が笑っていた。