2020年8月10日月曜日

伝え方

日曜、電車での外出の直前、長男の青が「パスモない」と言う。
普段玄関に置いてある小児用交通ICの、ケースはあるのだが本体が無くなっていた。
みんなで探していると、次男の橙が「あったよ」と言って持ってくる。
妻が「どこにあったの」と訊くと、「おもちゃ棚の中」と答えた。

ああ、と思って
「橙が隠したの?」と訊いたら
「違うよ」と言うけれど、こちらに背を向けている。
「こっちを向いてよ。橙が隠したの?」「違うってば」
みるみる声が震え、泣き出してしまった。

怒り飛ばしてやろうか、という衝動が沸き上がったが、思い直した。
これは彼の「言葉に出来ない声」なのだから、
言葉にするやり方を教えて、
最終的には、自分から言葉として発することが出来るように、
リードしてあげたいと思ったのだ。

「ねえ橙、パパは怒っていないし、怒らない。にいにと同じカードが欲しかったか」
頷く。
「そうだな、小学生になったもんな。作ってあげるよ。こっち向いて、こっちおいで」
抱きついてきた。
「でもね、こういう伝え方はしないでほしい。
 いちばん悪いやり方だと思う。
 何かしてほしいことがあるなら、言葉で伝えてくれ。
 いいよって言うこともあれば、ダメだよって言うこともあるけど、
 パパもママも絶対に、うるさがったり嫌がったりしないから」

甘すぎるだろうか、という考えも頭をよぎる。
ただ、自分が子供だった時、
同じような場面でかけてもらいたかった言葉ではある、とも思った。
そのあと行った仙川のロイヤルホストで、
次男は好物のパンケーキを、嬉しそうにたらふく食べた。



2020年5月2日土曜日

指輪物語

小学生の頃の私は、いわゆる「本の虫」だった。
「どこか遠いところへ行きたい」という強い願望を、常に抱いていたからだと思う。
「遠くへ行く」手段がマンガやゲームなら、
長いあいだ熱中すれば大人たちが必ず咎めるが、
本を読んでいるとなれば五月蠅いことは滅多に言われない。
毎週土曜、武庫之荘にあった尼崎市立北図書館へ自転車で行って4冊借り、
次の土曜日までに読み切って、また4冊借りる。
正面玄関入って右側の児童書コーナーは、私にとって宝の山だった。

「遠くへ行きたくて」読んでいるので、
畢竟、海外のファンタジーにのめり込んだ。
福音館書店のハードカバーで読んだ海底二万マイルやジャングルブックや宝島、
偕成社から出ていた大どろぼうホッツェンプロッツにクラバート、
それからとりわけ、
岩波書店によって知ることが出来た数々の名品。
ドリトル先生、ナルニア国ものがたり、ゲド戦記、ケストナーにリンドグレーン、
そしてミヒャエル・エンデの「ジム・ボタン」「モモ」「はてしない物語」など、
枚挙に暇が無い。

あらかた読み尽くしたと悦に入っていた小学五年の十二月、
壁一面の本棚の端っこに、それまでは無かったものを見つけた。
味も素っ気も無い装丁、およそ児童書のコーナーに似つかわしくない、
評論社文庫旧版の指輪物語だった。
その時の私はまさにちょうど
「大人が読むような、味も素っ気も無い表紙の本」を
手に取りたいと思っていたところだった。
冬休み前だったので6冊全部
(現在流通している新版の文庫は全10冊だが、旧版は3部作×上下だった)
借りることができ、
その年末年始、まだ元気だった祖母の部屋の炬燵に潜りながら、
私は中つ国を存分に旅した。

今にして思えばあの指輪物語は、
おそらく当時の司書さんが、大人用の書棚から移してきてくれたものだった。
私だけのために、というのはさすがに傲慢が過ぎるけれど、
私のような本の虫、毎週毎週通ってくる変わり者の子供のために、
あの年の瀬「こいつもいってみろよ」と、投げかけてくれたのだと思っている。





2020年5月1日金曜日

彼方なる歌に耳を澄ませよ

 座右の書、アリステア・マクラウド「彼方なる歌に耳を澄ませよ」

アリステア・マクラウド(1936-2014)は非常に寡作、
自分が育ったカナダ東端ノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン島の
スコットランド系移民の話「しか」書かなかった人だ。
歴史に立脚して生きる親の人生と、それを後ろに置いていかざるを得ない子の人生。
別巻の短編集「灰色の輝ける贈り物」所収の「船」における、
子から父への思いを綴った次のような一文に象徴される世界である。

「自分本位の夢を一生追い続ける人生より、
 ほんとうはしたくないことをして過ごす人生のほうが、はるかに勇敢だと思った」
(I thought it was very much braver to spend a life doing what you really do not want
 rather than selfishly following forever your own dreams)

「彼方なる歌に耳を澄ませよ」は唯一の長編で、集大成と言ってよいだろう。
結びの一節
「誰でも愛されるとよりよい人間になる」
(All of us are better when we're loved)は、
障害を持つ長男と生きる上で、私を支え続けてくれている言葉である。




2020年3月15日日曜日

2020年2月13日木曜日

回転寿司

 回転寿司のボックス席、
長男と次男がそれぞれ、レーンの脇に座った。
通路側から奥を見て、左に長男、右に次男だ。
すると長男が「あ」と立ち上がり
「マチガエタ。ダイクンカワッテ」

「イヤだよ」
と言って次男は靴を脱ぎだす。
「どっちでも一緒でしょう。代わってあげて」
「イヤだよ」
「ダイクンカワッテ」
「イヤ」
「橙、青は自分をゆずれない。お前がゆずってくれ」

次男がハアッと溜息をつくと、
テーブルの下に潜り、反対側から出てきた。
空いたところに長男が座った。

次男はしばらく俯いていたが、
顔を上げてこちらと目が合うと、だんだん泣きっ面になってきた。
「おいで」と通路に連れ出し、
待合用の椅子に座って膝へ乗せると、私の胸に顔をうずめて
「代わるのイヤだったよう」
と言って泣いた。
右に座るか左に座るかは小さなことだが、
この先何度「お前がゆずれ」と彼に言うのだろうと、
その物思いが頭に満ちて
「わかるよ。ごめんな」としか言えず、背中を撫でていた。

ちょっと落ち着いてきたので
「たまご食べる?」と訊いたら、顔を押しつけたまま、ぐっと頷いた。
それから起き上がって
「ポテトは?」と訊いてきた口もとは、少しだけ笑っていた。
「食べようぜ」と言って、二人で席へ戻った。



2020年1月30日木曜日

解毒

雨の帰り道、世田谷線を待つ長男を凛々しく思って眺めていたら、
彼の奥のほう、二十数年前に住んでいたアパートが目に入った。
正確には当時の恋人が借りていた部屋で、私は転がり込んでいただけだが。

東京に出てきたばかりの自分を思い返すと苦しい。
就職面接で長所を問われ
「どんな状況でも楽しむことができることだ」
と何の疑いもなく答えていたのに、
翌年の春にはもう、理由のわからない疲労に苛まれるようになっていた。

今にしてみれば、
それは新生活のストレスなどといった表層に起因するものではなくて、
もっと致命的な性質を孕んだ毒だったのだとわかる。
十代の大きな部分を家族の介護のために削ったこと、
そして、それを当然のこととして扱われたこと。
転がり込んだアパートの恋人と結婚して、離婚した。
二十代の私は傷ついていたが、彼女のことも傷つけてばかりだった。

夜の寝室、隣で横になった長男が、おやすみと呟いたあと、
私の右手をそっと握って、自分の胸のほうへ引き寄せた。
母親がまだ水仕事の最中で、
こちらへ来ない寂しさをまぎらわすためにしていることだと重々わかっているのに、
私は、長男も含んだ何か複合的な存在が、
私を抱き留めてくれているような感覚に包まれた。

彼が寝入るにつれて、指先の力が段々抜けていくのを見ていた。



2019年12月1日日曜日

私のようだ

 子供達の寝かしつけの最中
「ねえ、橙が泣いているのよ」
と、妻が言った。
右隣の次男を見ると確かに、
両手で目を覆って、口をへの字にひん曲げている。

うちでは本来、長男の青と私、次男の橙と妻の組み合わせで寝ているのだが、
寝かしつけの時は長男も「ママそばにいて」と強く主張するので、
彼らが寝入るまではたすき掛けで、
長男と妻、次男と私で横になることが多い。
別段、次男のほうがそれを嫌がる様子は、今まで無かったのだが。

頭を撫でながら
「ママがいいか?」
と訊くと、うなずく。

「パパよりママがいいか?」
「・・パパよりママがいいよ」
「なかなか残酷なことを言う」
すると向こうの妻が
「言ってくれなきゃわからないよ」
言えないよなあ、と思う。
「言えないよなあ、わかるよ」男だからね。

程なく青が寝入ったので、妻と交代しようと起きた。
妻が橙に
「パパにありがとうって言いなよ」
「・・ありがと」
「いいさ」

これが男親というものかなあ、と、自分の寝床に入りながら思う。
悲哀なのか醍醐味なのかわからない。
でもこういう気分は嫌いじゃない、男だから。

私は家族みんなを愛しているが、今はとりわけ、次男のことが気にかかる。
君はにいにのこと、よくわかっているんだね。
それで我慢して、我慢しきれなくて、まるっきり私のようだ。

泣きたい。



2019年11月9日土曜日

ちがうみち

 朝、送迎バスの停留所へ向かう道、
いつもは真っ直ぐ進む四つ角で、先を歩く長男の青が突然左へ折れた。
万事ルーティンにこだわる自閉症児なのに、
どうしたことかと驚いて追いかけたが、本人は別段惑う様子も無く、
少し遠回りしてみながら目的地へ向かう、それだけのことのようだった。

バス停の目前の信号を、長男が渡ったところで赤になった。
すると対岸の私に振り向いて、誇らしげに

「アオくん、チガウミチイッタ!」

頭の中をびゅうっと風が吹き抜けたように感じ、
彼が三歳だった頃、育休中の記憶が蘇った。
毎日の散歩、決まった順路を、一軒ごとに門扉をいじりながら進み、
少しでも違えば泣き叫んで道に転がっていた子だ。
同じ子が六年後、
自分からすすんでルーティンを崩し、それを楽しんでいる。

「すごいなあ」と小さく口にしたあと、
行き交う車の音に負けないように

「すごいなあ青、すごいぞ!」

語尾が少し震えた。
満面の笑顔を見ながら、仕事に向かうのが惜しかった。


2019年4月5日金曜日

疎遠

四月五日は母の誕生日で、彼女は七十九歳になった。
郷里の尼崎で、一人で暮らしている。

私は大変な難産の末に生まれたひとりっ子で、
家族は七十年代後半から九十年代前半にかけて、
親子三人に母方の祖母を加えた四人暮らしだった。
私が子供の頃、母は折に触れて
「男の子は大きくなったら独立しなきゃ。いつまでも親の脛齧りはみっともないわ」
と口にしていた。

高校三年の時に父が死に、大学一年の時に祖母が死んだが、
私は母の口癖を真に受けていたので、
大学二年の時、一人暮らしをすると彼女に告げた。
「割のいいバイトを掛け持ちしているから、仕送りの必要は無いよ」

母は一瞬、虚を衝かれたようだったが、
みるみる鬼のような形相になり
「お前までわたしを置いていくのか」
と叫ぶように言った。
私は非常に混乱したが、何とか認識を新たにした。
「この人はもう私の保護者ではないのだ。私がこの人を保護しなければならないのだ」
私は諦め、卒業まで、尼崎から京都へ通った。

今にしてみれば、当時の母の気持ちは判る。
だが、彼女は決してそのように反応するべきではなかったし、
同時に、私も決してそのように応じるべきではなかった。
母は私に、死んだ夫を投影するようになった。
私は母から離れるため、東京での就職を望んだ。

その後も色々なことがあって母とは決定的に疎遠になり、
そして今に至っている。
生活費の仕送りをするだけだ。
この先、彼女が介護を必要とする状況になっても、私は同居するつもりが無い。
しかし、彼女を「大人になりきれなかった人」と捉えて、
かわいいと思うことくらいなら出来るかもしれないと、最近は考える。
不遜な物言いだろうか。

朝、最寄り駅に向かう途中で、
母に「誕生日おめでとう」とメールを送った。
すぐに「ありがとうね」と返信が来た。
語尾には、桃色に笑った絵文字が付いていた。




2019年2月3日日曜日

駅

古い荷物を整理していたら、実家のバーの写真が出てきた。
ひょっとすると二十年くらい前だろうか、もう亡くなった常連の姿もある。

屋号は「駅」と言って、大阪北区堂山の雑居ビルの三階にあった。
コの字のカウンターだけの店で、
父が死んでからの十数年は、母がひとりで切り盛りした。

この写真は誰が撮ったものか判らないが、
夜の酒場の楽しさが匂い立って、いい気分にさせてくれる。
二十代の自分の顔に映る
「もう坊やじゃないぞ」という気概も微笑しい。

粋な大人の振る舞いかたと、酒に飲まれる格好悪さの、
両方教えてくれた場所だった。