2017年9月27日水曜日

伯父に寄せて

伯父が急に亡くなり、京都での告別式に参列した。実感がわかない。
八十三歳なら、ままあることとは思うけれど。

浜崎満は母の兄で、俳優だった。一人芝居と長く取り組み、
バリー・コリンズの大作「審判」をライフワークとして、二百数十回上演した。
戦時下のカニバリズムを主題としたモノローグドラマで、
私は三回観たが、いろいろと理解できたのは最後に観た時、
自分が二十歳の頃だったかと思う。
ハコは京都府立芸術文化会館、鬼気迫るものを感じて、
上演後の楽屋で我知らず敬語になってしまい、本人にいぶかしがられたのを憶えている。

2003年、一連の実験映画で知られる高林陽一監督の「愛なくして」に出演し、
東京ではポレポレ東中野で上映された。
ちょうどその頃、自分も筑紫哲也NEWS23の仕事を通じて
ポレポレの支配人・大槻貴宏氏と知り合い、よく話題にのぼった。

伯父は芸術に生きた人であり、生活者としては生涯無能だった。
寝食を人に頼るその生き方に反発を覚え、この十年はまるで会わなかった。
しかし、今日の精進落としで長年の仕事のパートナーである
遠藤久仁子氏(「愛なくして」のプロデューサーでもある)から、
「俺は駄目な人間だ」と葛藤していたとの話を聞き、その真面目さと不器用さを思った。
常に自分を優先し尽くした八十余年だったが、
どうあってもそのようにしか生きられない人だったのだろう。

私の父と母は、伯父を介して知り合った。
父は大阪の劇団・関西芸術座の創立メンバーで、結核を患い俳優を辞めたあと、
梅田の劇場・オレンジルームの支配人などをした。
母と出会ったのは演劇関係者のパーティー、
母は伯父に頼まれ、たまたま手伝いに来ていたのだという。
私の記憶の中の父と伯父は、
鍋をつつき酒をあおりながら、四六時中芸術論をたたかわせていた。
血の繋がった実の兄弟のようだった。二人とも若く元気だった。

古いアルバムを開くと、
結婚した当初、今の私よりも若い父と母が笑っていた。








2017年5月19日金曜日

にいに

弟は にいにが好きでしょうがない
にいにが走れば追いかけるし
座れば隣に座る

でも にいにが幼稚園の友達と
違うことには気づいている
複雑な言葉を話すことは無いし
複雑な遊びを理解することも無い

もう少ししたら
きみはにいにを嫌いになるだろうか
そうなるとしたら
それも仕方が無いだろう

それでもまた 必ず好きになるだろう
にいには違っているけれど
いいやつだから







2017年4月7日金曜日

All of us are better when we're loved


長男・青の特別支援学校入学式を前に、
高井戸の松屋で朝飯を食べた。
知的障害者の青年がシフトに入っており、
配膳の前段階や食器洗浄を担当していて、なかなか良い手際だった。

息子が十八になった時、どうなっていてほしいか。
社会で仕事に就き、正当な対価を受け取ってほしい。
以前は口ごもっていた答えだが、今は自信を持って言える。
皆で歩むのをやめなければ、彼にはそれが出来るだろう。

そして一人の親としては、
子の社会が障害者に対する寛容さを致命的に失うことが無いよう、
現実的に尽くしていきたい。
チショウと呼んで蔑む心は無くせないにしても、
そのような悪意と非寛容が社会全体を覆ってしまわないよう、
善意と寛容の価値を愚直に掲げていきたい。

入学式、礼装の長男は親と離れて静かに座っていた。
終了後、保護者席に駆けてくると
「青ガンバッタネ」と自ら言って満面の笑顔を見せてくれた。
座右の書、アリステア・マクラウドの
「彼方なる歌に耳を澄ませよ」の一節を改めて思った。

「誰でも愛されると、より良い人間になる」




2017年3月24日金曜日

介護

三連休で帰省した岡谷で、閉店した中華料理屋のドアに
「介護に専念のため廃業しました」という貼り紙を見て、
どうにもやるせない気持ちになった。
介護される家族は、そんなことを望んでいただろうかと。

十代の頃、アルツハイマーを患った祖母の介護をした。
父が入退院を繰り返し、母は夜の仕事に出ていたので、
学校から帰った後はほぼ私ひとりで看ていた。
「俺が全てを支えている」という自己陶酔で保っていたが、
本当のところ、下の世話も徘徊のケアも嫌で仕方なかった。
「うちへ帰る」と出て行こうとするのを押さえながら
「お願いだから死んでくれ」と口走って、そのあと泣いた。
祖母は
「どちら様かわからないけれど、迷惑かけてすいません」と言った。

それらの経験が私を強くしたかというと全く違って、
私は逆に弱くなった。
介護の終わりは結局家族の死であって、努力は成果に結びつかない。
そこに「看取り」と名を付けて
何がしかの気づきに接近できるケースなら幸運だが、
精神の疲弊にも不可逆な境目があり、不可逆に削られれば障害となる。
祖母の介護は、私の長い抑うつの原因となった。

介護の社会化、それは理想だ。
しかし現実的には、この先も無理だろう。
祖母を看取った母も数年後には八十になる。
母の介護で疲弊するのは御免だし、自分の介護で疲弊する息子も見たくない。
元も子もない話だが、金が大事ということだ。




2017年1月25日水曜日

続ける

「治るというものではありません」
現代の自閉症児の親が全員、医師から聞かされる言葉だ。
個人的にはほぼ事実と思う。
診断後、健常の国へ籍を移した例を知らない。
ただ、異邦人として健常の国で暮らせる程度に適応することは
不可能ではないと思っている。
それを可能にするのが日々の療育であり、
親としての勝負どころだと思っている。

「治らない」と言われて、
親たちは様々に反応する。
「そんなはずはない、治る」と目の色を変え、
玉石混淆の療育法を片っ端から試す人。
「このままでいいの、だって治らないんだもの」と抱きしめて、
それきり何もしない人。
両方気持ちはわかるが、極端な態度には賛成できない。
子供のためと言いながら子供を見ていない。

郊外へ向かう電車の向かいの席に、
小柄なお母さんと大柄な自閉症児が座っていた。
子供が突然奇声を上げ、次の駅で降りると身をよじり出す。
まだ先だとお母さんがなだめるけれどうまくいかず、
子供は目を見開きこぶしを振り上げる。
お母さんは身動きやめて、手を膝に彼の目を見る。
彼がぎりぎりと歯を鳴らしながら、
振り上げたこぶしを下ろす。

親子は次の駅で降りて行った。
お母さんは今まで何度途中下車しただろう。
今回もした。
しかしお母さんは今まで何度、息子に殴られたことだろう。
今回は殴られなかった。
そこに少しの前進があり、希望がある。

週末から我が家にも何度目かの嵐が来て、妻も私も疲れている。
携帯端末に残っている長男の三年前の写真を、
最近のものと見比べる。
三年前、私が子育てを始めた頃だ。
それまでは妻が一人でしていた。
しかしそこから三年、まあまあさぼらずやって来た。
そのことを小さな誇りにして、今日も続ける。