2022年5月22日日曜日

父を嗤う

何か月かに一度、週末に太宰を音読する。
だいたい富嶽百景、駆け込み訴え、桜桃の順で、
四半世紀以上そうしているし、これからもそうするだろうから、
徒労以外の何物でもないとは思うが、
死ぬまでには諳じることができるかもしれない。

太宰を読むときはいつも、父のことを思い出す。
私が最初に嵌まった中学の時分、
まだ生きていた父は、明らかに嬉しさを押し殺した仏頂面で
「遅かれ早かれ、太宰に嵌まるのはすごく解るで。
 せやけど大人になってまで引きずるもんでもないがな」と言っていた。
だが私は既に四十七歳、人の親となって久しいけれど、
性懲りも無くいまだに太宰を読んでいる。
それは
「ロックなんて、いつまでもやるもんじゃねえ」
と自分で意気がっていたおっさんどもが、
老いさらばえてなお、練習スタジオへいそいそと集まるさまと似ている。

富嶽百景で真人間になろうと結婚をし、
駆け込み訴えではイエスを裏切るユダの心理を鮮やかに描いた口述を、
その妻に書き留めてもらって、絶好調の太宰はしかし、
桜桃では長男の障害とどうしても向き合えず、
逃げた先の酒場でサクランボを不味そうに食べている。

先生、あなたは逃げたが、私は逃げませんでしたよ、
と上から独りごちる時、同時に頭に浮かぶのが、
自閉症児の長男のことよりは、むしろ親父のことなのだ。
彼が人生を通じて逃げたこと、向き合えずにしまったこと、
民族、血脈、それらに起因する抑鬱。
太宰のきらびやかな文才は、父と私を繋ぐ触媒だ。
私は太宰を読みながら、大人になれずに死んだ父を嗤う。
嗤うが、とても懐かしい。