2010年10月19日火曜日

きみが生まれたことを
きみのおばあちゃんに知らせるために
電話を持ってエレベータホール
大きな窓の外に広がる午後の曇り空から
久我山の駅のあたりにむけて
ほそい日差しがふたすじおちた

きみのひいおじいちゃんが、朝に亡くなったと聞いた


びりびりとからだに響いた
大きな大きなきみのうぶごえ
ずっとおぼえているだろう

2010年10月19日14時48分
男子、3216グラム
名は「青(あお)」





2010年9月11日土曜日

携帯ビートニク

ある日の 「あ」の 「予測候補」




アンチ 遊びに ありがとう
あたたかい あたりで あったかなあ
アタック アドレス アジア 阿佐ヶ谷
会いたい 会えなくて 敢えて
ありました あー 雨の アルト
アフタヌーン 愛し合いたい 歩く
安心 朝が 暑さで 赤坂
あなた あるいは 雨


2010年8月8日日曜日

フィッシュマンズについて

フィッシュマンズを知った時、佐藤伸治はもう死んでいた。
どこかで名前を耳にしたことくらいはあったかも知れない。
1999年の夏に、渋谷のHMVで「Aloha Polydor」をジャケ買いして、
その夜聴いた1曲目の「IN THE FLIGHT」にいきなり引き込まれた。
ガラス細工みたいな音だと思った

佐藤伸治が33歳で死んだのはその年の3月で、
「Aloha Polydor」は、追悼のベストアルバムだった。
僕は東京に出て来て3年目、25歳、
経堂にアパートを借りていたがほとんど帰らず、
当時の恋人が住んでいた松原の部屋で寝起きしていた。
自分で買って持ち込んだ安いCDラジカセで、
寝入りばなに毎晩聴いた。
聴きながら暗い天井を見上げていると
なんにもないところに沈んでいくような心持ちになって、
眠れたり、
眠れないにしても、不思議と落ち着いた気分になった。
でも恋人は、佐藤のファルセットが怖いと言ってあまり気に入らず、
僕は仕方なく夜な夜なボリューム下げて、
最後には、最小音量のスピーカーに耳押し付けるようにして、
それでもずっとかけていた。

ボタンひとつ押すと、何も聴こえなくなってしまう。
そして反対のボタンひとつ押すと、
夜の中なら、ちゃんと聴こえる。
それはそれで、また良いと思った。

秋になったころ、最後のライブを収録した「男達の別れ」が出た。
Disc2の「Long Season」に圧倒され、アルバム全部買い揃えた。


それからもう十年だ。
その恋人と結婚して、離婚した。
あれこれ贅沢な悩みに溺れているうちに、
佐藤伸治より年上になった。

フィッシュマンズは今に至るまでずっと好きで、
折にふれて聴き返してきたが、
感じ取るものは変わったと思う。

25歳の時、僕にとってフィッシュマンズは
自己愛を代謝するチャンネルのようなものだった。

「ドアの外で思ったんだ あと十年たったら
 なんでもできそうな気がするって
 でもやっぱりそんなの嘘さ やっぱり何もできないよ
 僕はいつまでも何も できないだろう」
(「IN THE FLIGHT」)

このような言葉を歌う佐藤伸治の細い声に、
僕は自分の過剰な自己愛を重ね合わせて存分に酔った。
そして癒された。
まだ十分に傲慢で、今にして思えば余裕のある時期だった。
ああ、ここに僕の気持ちを代弁してくれている人がいるなあ
この人は僕とおんなじだ


実際に十年たって、
このような言葉に酔ったり癒されたりすることはもう無い。
何ていたたまれない歌なのだろうと思う。
「感動的に」、いたたまれない歌であると思うのみだ。

佐藤伸治が歌ったのは、
たとえば絶対的な孤独、孤独を避けがたい人生に対する諦念、
そこで泥まみれになることを避け、
浮遊するように処世する「術」と、その「薦め」などだろう。
その言葉を鵜呑みにして、僕はしたたか酔っていたわけだ。

しかし、そのような消極の極みを本当に是とする人ならば、
それを歌にして世に問うにあたって
あんなにやせ細って幽霊みたいになるものだろうか。

フィッシュマンズの音楽の奥に刻み込まれているものは、
そういう孤独や諦念や消極や処世を見つめた上で
それらと「対峙」したいと望んでいた
佐藤伸治の壮絶な「葛藤」なのだと、今は思う。

佐藤伸治は、その並外れた透徹な目でもって
くそ真面目にいろんなものを見て受け取って、
くそ真面目にそれらと折り合いつけようと
もがいて、結果的に疲弊していったように思えてならない。
折り合いをつけよう、つけることが出来るとまだまだ挑んでいるのが
1996年の「空中キャンプ」のころ、
そして疲弊しつつあるのが
1997年の「宇宙 日本 世田谷」のころではないかと
僕には感じられる。
この二枚と、二枚の間に出た35分1曲のアルバム「Long Season」は
90年代を代表する名盤と世評の誉れ高いが、
個人的にはいつも
最後の「宇宙 日本 世田谷」にとりわけ強い印象を受ける。
終曲「daydream」の痛々しさは、特に衝撃的だ。

「死ぬほど楽しい 毎日なんて
 まっぴらゴメンだよ
 暗い顔して ふたりで一緒に
 雲でも見ていたい」
(「daydream」)

伴奏が必死に、それではダメだと叫んでいると
今は感じる。
かつて、これを聴いて「癒された」などと感じていたなんて、
個人的には、非常に恥ずかしい思いがする。


2010年1月11日月曜日

夜明け前

年末から年始にかけて読んだ。

島崎藤村の父・正樹は
幕末から明治への激変を木曽で生きた人だった。
家業は中山道の宿場の役人であり、
江戸幕府による統治システムの一部を担っていた。

一方で、彼は国学者だった。
国学、特に
彼が学んだ平田篤胤の国学は
「江戸幕府を倒して天皇に政権を戻す」
という「倒幕」の動きに
思想的な背景として大きな影響を与えた学問である。

実に矛盾をはらんだ境遇だ。

しかし、時代の急展開は
この矛盾を解消する方向へと進むかに見える。
三十代半ばで明治維新、
政権は、武士から天皇へと戻った。

ところが日本のシステムは、今度は急激に「西洋化」する。
この「西洋化」がまた、
彼の信条=平田篤胤の国学と相容れない。
それでも地域の代表として
人々の生活の改善に奔走するが
ことごとく何の成果も挙げられず、
深い失望の中、
五十代半ばで狂死する。

「夜明け前」は、このような父の生涯を通じて
藤村が
「明治維新とは何だったか」を世に問うた大作である。
連載の開始は昭和4年、
折しも
明治維新によって生まれた
「大日本帝国」というシステムが
第二次世界大戦での大崩壊へと向かっていく
とば口だった。

重い。しんどい。
読みにくい。
だがこのような
いわば「歴史との闘い」を試みたものが
軽く読みやすいはずもない。

藤村の父は当時の知識人であり、
当然、
時代の激変の只中にあって
何も考えずに身を任せるがままでは
いられない人だった。
「自分に何が出来るか」と考えざるを得ない人だった。
そして、何も出来ずに終わった。

そんな父の人生を見つめる藤村のまなざしは、
去年、村上春樹がエルサレムで行った
「壁と卵」のスピーチを思い起こさせる。

  「高くてかたい壁があり、
   それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、
   私は常に、卵のがわに立つ」
  「その壁がどんなに正しく、卵が正しくないとしても、
   私は卵のがわに立つ」

藤村の父は、壁にぶつかって壊れた卵であった。
そして藤村は、
父の思想、行動、人生が
「正しかった」とは決して言わない。
ただ、寄り添うのみだ。

真摯である。