最近、親の見ていないところで長男の青が弟の橙を叩く。
見ていないところでやろうとするからには悪いことだと判ってはいるようだが、
もうしないと約束してもまたやってしまう繰り返しで、
今夜、これで何十回目かと頭に血が上り、
彼が弟にしているように頬をひっぱたいた。
「痛いだろう、どうしてこんなことをする」
「ゴメンナサイ」と言うが、虚ろな目である。
これでは何の解決にもならない。
なぜ、と訊いても答えは無い。
「なぜ」という質問に答える能力が彼にはまだ無い、こちらが言い当てるしかない。
「パパは好き?」
「スキです」
「ママは好き?」
「スキです」
「橙くんは?」
「・・キライです」
その冷たい口調に驚いた。どうしてだろう?弟の何が嫌なのだろう?
「橙くんのほうが、言葉が上手だから?」
その瞬間、長男の顔つきが変わった。
はっとしてこちらを見た後、泣き顔になって床へ突っ伏した。
そうか、嫉妬だ。弟の健常が羨ましいのだ。
ここまで育ってきたか、と思うと同時に、
難しいところに差し掛かったな、とも思った。
「・・ねえ橙くん、青くんが小さかった頃、
お医者さんは、青くんは一生何も話さないかも知れないと言っていた。
パパやママや橙くんにとっては、言葉を話すことは難しくない。
でも青くんにとっては、それは宙返りをするくらい難しいことなんだ。
でも青くんは、ここまでとてもとても頑張って、こんなに話すようになった」
「うん」
「でもね、青くんがそれだけ頑張っても、
橙くんのほうがもうずっと上手に話せてしまう。
どうしてなんだ、ずるいよと思ってしまうんじゃないかな。
そういう気持ちって、橙くんは判る?」
「うん。青くんの気持ち、わかるよ」
「青、きみがどれだけ頑張ってここまで来たか、
パパもママも知っているよ。
それだけ頑張っても上手く話せない、それがどれだけ悔しいかわかるよ」
いや、それは嘘だ、
私は目も見えるし耳も聞こえる、歩けるし走れるし、
そして何より言葉に不自由を感じたことなどこれまでただの一度もない。
彼の気持ちをわかるなんて、
障害を抱えた人の気持ちをわかるなんて、
それは見え透いた偽善だ。
だが他に何と言えばいいのだろう?
そしていずれにせよ、最後に言わなければならないことだけは、はっきりしている。
「でも、だからって人を叩くのは違うよ。
橙くんを叩いても、青くんの言葉がうまくなるわけじゃない。
叩いても、何にもならないんだよ」
子供達を寝かせたあと、妻と話した。
青の自己肯定感を高めるには、
以前なら、彼が出来るようになったことを逐一褒めてあげればそれで良かった。
これからは、もうそれでは済まない。
じゃあどうするかって、正直答えは無いけれど、
もう一度気持ちを引き締め直して、誠実にあたっていくしかないだろう。