2020年11月29日日曜日

キライ

 最近、親の見ていないところで長男の青が弟の橙を叩く。
見ていないところでやろうとするからには悪いことだと判ってはいるようだが、
もうしないと約束してもまたやってしまう繰り返しで、
今夜、これで何十回目かと頭に血が上り、
彼が弟にしているように頬をひっぱたいた。

「痛いだろう、どうしてこんなことをする」

「ゴメンナサイ」と言うが、虚ろな目である。
これでは何の解決にもならない。
なぜ、と訊いても答えは無い。
「なぜ」という質問に答える能力が彼にはまだ無い、こちらが言い当てるしかない。
「パパは好き?」
「スキです」
「ママは好き?」
「スキです」
「橙くんは?」
「・・キライです」
その冷たい口調に驚いた。どうしてだろう?弟の何が嫌なのだろう?

「橙くんのほうが、言葉が上手だから?」

その瞬間、長男の顔つきが変わった。
はっとしてこちらを見た後、泣き顔になって床へ突っ伏した。
そうか、嫉妬だ。弟の健常が羨ましいのだ。
ここまで育ってきたか、と思うと同時に、
難しいところに差し掛かったな、とも思った。

「・・ねえ橙くん、青くんが小さかった頃、
 お医者さんは、青くんは一生何も話さないかも知れないと言っていた。
 パパやママや橙くんにとっては、言葉を話すことは難しくない。
 でも青くんにとっては、それは宙返りをするくらい難しいことなんだ。
 でも青くんは、ここまでとてもとても頑張って、こんなに話すようになった」
「うん」
「でもね、青くんがそれだけ頑張っても、
 橙くんのほうがもうずっと上手に話せてしまう。
 どうしてなんだ、ずるいよと思ってしまうんじゃないかな。
 そういう気持ちって、橙くんは判る?」
「うん。青くんの気持ち、わかるよ」
「青、きみがどれだけ頑張ってここまで来たか、
 パパもママも知っているよ。
 それだけ頑張っても上手く話せない、それがどれだけ悔しいかわかるよ」

いや、それは嘘だ、
私は目も見えるし耳も聞こえる、歩けるし走れるし、
そして何より言葉に不自由を感じたことなどこれまでただの一度もない。
彼の気持ちをわかるなんて、
障害を抱えた人の気持ちをわかるなんて、
それは見え透いた偽善だ。
だが他に何と言えばいいのだろう?
そしていずれにせよ、最後に言わなければならないことだけは、はっきりしている。

「でも、だからって人を叩くのは違うよ。
 橙くんを叩いても、青くんの言葉がうまくなるわけじゃない。
 叩いても、何にもならないんだよ」

子供達を寝かせたあと、妻と話した。
青の自己肯定感を高めるには、
以前なら、彼が出来るようになったことを逐一褒めてあげればそれで良かった。
これからは、もうそれでは済まない。
じゃあどうするかって、正直答えは無いけれど、
もう一度気持ちを引き締め直して、誠実にあたっていくしかないだろう。


2020年8月10日月曜日

伝え方

日曜、電車での外出の直前、長男の青が「パスモない」と言う。
普段玄関に置いてある小児用交通ICの、ケースはあるのだが本体が無くなっていた。
みんなで探していると、次男の橙が「あったよ」と言って持ってくる。
妻が「どこにあったの」と訊くと、「おもちゃ棚の中」と答えた。

ああ、と思って
「橙が隠したの?」と訊いたら
「違うよ」と言うけれど、こちらに背を向けている。
「こっちを向いてよ。橙が隠したの?」「違うってば」
みるみる声が震え、泣き出してしまった。

怒り飛ばしてやろうか、という衝動が沸き上がったが、思い直した。
これは彼の「言葉に出来ない声」なのだから、
言葉にするやり方を教えて、
最終的には、自分から言葉として発することが出来るように、
リードしてあげたいと思ったのだ。

「ねえ橙、パパは怒っていないし、怒らない。にいにと同じカードが欲しかったか」
頷く。
「そうだな、小学生になったもんな。作ってあげるよ。こっち向いて、こっちおいで」
抱きついてきた。
「でもね、こういう伝え方はしないでほしい。
 いちばん悪いやり方だと思う。
 何かしてほしいことがあるなら、言葉で伝えてくれ。
 いいよって言うこともあれば、ダメだよって言うこともあるけど、
 パパもママも絶対に、うるさがったり嫌がったりしないから」

甘すぎるだろうか、という考えも頭をよぎる。
ただ、自分が子供だった時、
同じような場面でかけてもらいたかった言葉ではある、とも思った。
そのあと行った仙川のロイヤルホストで、
次男は好物のパンケーキを、嬉しそうにたらふく食べた。



2020年5月2日土曜日

指輪物語

小学生の頃の私は、いわゆる「本の虫」だった。
「どこか遠いところへ行きたい」という強い願望を、常に抱いていたからだと思う。
「遠くへ行く」手段がマンガやゲームなら、
長いあいだ熱中すれば大人たちが必ず咎めるが、
本を読んでいるとなれば五月蠅いことは滅多に言われない。
毎週土曜、武庫之荘にあった尼崎市立北図書館へ自転車で行って4冊借り、
次の土曜日までに読み切って、また4冊借りる。
正面玄関入って右側の児童書コーナーは、私にとって宝の山だった。

「遠くへ行きたくて」読んでいるので、
畢竟、海外のファンタジーにのめり込んだ。
福音館書店のハードカバーで読んだ海底二万マイルやジャングルブックや宝島、
偕成社から出ていた大どろぼうホッツェンプロッツにクラバート、
それからとりわけ、
岩波書店によって知ることが出来た数々の名品。
ドリトル先生、ナルニア国ものがたり、ゲド戦記、ケストナーにリンドグレーン、
そしてミヒャエル・エンデの「ジム・ボタン」「モモ」「はてしない物語」など、
枚挙に暇が無い。

あらかた読み尽くしたと悦に入っていた小学五年の十二月、
壁一面の本棚の端っこに、それまでは無かったものを見つけた。
味も素っ気も無い装丁、およそ児童書のコーナーに似つかわしくない、
評論社文庫旧版の指輪物語だった。
その時の私はまさにちょうど
「大人が読むような、味も素っ気も無い表紙の本」を
手に取りたいと思っていたところだった。
冬休み前だったので6冊全部
(現在流通している新版の文庫は全10冊だが、旧版は3部作×上下だった)
借りることができ、
その年末年始、まだ元気だった祖母の部屋の炬燵に潜りながら、
私は中つ国を存分に旅した。

今にして思えばあの指輪物語は、
おそらく当時の司書さんが、大人用の書棚から移してきてくれたものだった。
私だけのために、というのはさすがに傲慢が過ぎるけれど、
私のような本の虫、毎週毎週通ってくる変わり者の子供のために、
あの年の瀬「こいつもいってみろよ」と、投げかけてくれたのだと思っている。





2020年5月1日金曜日

彼方なる歌に耳を澄ませよ

 座右の書、アリステア・マクラウド「彼方なる歌に耳を澄ませよ」

アリステア・マクラウド(1936-2014)は非常に寡作、
自分が育ったカナダ東端ノヴァ・スコシア州ケープ・ブレトン島の
スコットランド系移民の話「しか」書かなかった人だ。
歴史に立脚して生きる親の人生と、それを後ろに置いていかざるを得ない子の人生。
別巻の短編集「灰色の輝ける贈り物」所収の「船」における、
子から父への思いを綴った次のような一文に象徴される世界である。

「自分本位の夢を一生追い続ける人生より、
 ほんとうはしたくないことをして過ごす人生のほうが、はるかに勇敢だと思った」
(I thought it was very much braver to spend a life doing what you really do not want
 rather than selfishly following forever your own dreams)

「彼方なる歌に耳を澄ませよ」は唯一の長編で、集大成と言ってよいだろう。
結びの一節
「誰でも愛されるとよりよい人間になる」
(All of us are better when we're loved)は、
障害を持つ長男と生きる上で、私を支え続けてくれている言葉である。




2020年3月15日日曜日

2020年2月13日木曜日

回転寿司

 回転寿司のボックス席、
長男と次男がそれぞれ、レーンの脇に座った。
通路側から奥を見て、左に長男、右に次男だ。
すると長男が「あ」と立ち上がり
「マチガエタ。ダイクンカワッテ」

「イヤだよ」
と言って次男は靴を脱ぎだす。
「どっちでも一緒でしょう。代わってあげて」
「イヤだよ」
「ダイクンカワッテ」
「イヤ」
「橙、青は自分をゆずれない。お前がゆずってくれ」

次男がハアッと溜息をつくと、
テーブルの下に潜り、反対側から出てきた。
空いたところに長男が座った。

次男はしばらく俯いていたが、
顔を上げてこちらと目が合うと、だんだん泣きっ面になってきた。
「おいで」と通路に連れ出し、
待合用の椅子に座って膝へ乗せると、私の胸に顔をうずめて
「代わるのイヤだったよう」
と言って泣いた。
右に座るか左に座るかは小さなことだが、
この先何度「お前がゆずれ」と彼に言うのだろうと、
その物思いが頭に満ちて
「わかるよ。ごめんな」としか言えず、背中を撫でていた。

ちょっと落ち着いてきたので
「たまご食べる?」と訊いたら、顔を押しつけたまま、ぐっと頷いた。
それから起き上がって
「ポテトは?」と訊いてきた口もとは、少しだけ笑っていた。
「食べようぜ」と言って、二人で席へ戻った。



2020年1月30日木曜日

解毒

雨の帰り道、世田谷線を待つ長男を凛々しく思って眺めていたら、
彼の奥のほう、二十数年前に住んでいたアパートが目に入った。
正確には当時の恋人が借りていた部屋で、私は転がり込んでいただけだが。

東京に出てきたばかりの自分を思い返すと苦しい。
就職面接で長所を問われ
「どんな状況でも楽しむことができることだ」
と何の疑いもなく答えていたのに、
翌年の春にはもう、理由のわからない疲労に苛まれるようになっていた。

今にしてみれば、
それは新生活のストレスなどといった表層に起因するものではなくて、
もっと致命的な性質を孕んだ毒だったのだとわかる。
十代の大きな部分を家族の介護のために削ったこと、
そして、それを当然のこととして扱われたこと。
転がり込んだアパートの恋人と結婚して、離婚した。
二十代の私は傷ついていたが、彼女のことも傷つけてばかりだった。

夜の寝室、隣で横になった長男が、おやすみと呟いたあと、
私の右手をそっと握って、自分の胸のほうへ引き寄せた。
母親がまだ水仕事の最中で、
こちらへ来ない寂しさをまぎらわすためにしていることだと重々わかっているのに、
私は、長男も含んだ何か複合的な存在が、
私を抱き留めてくれているような感覚に包まれた。

彼が寝入るにつれて、指先の力が段々抜けていくのを見ていた。