2013年1月6日日曜日

雪国

雪国は今まで何回も読んでいる小説で、
何回も繰り返し読むということは
それだけ強く惹かれるものがあるということなのだが、
惹かれるからと言って、じゃあ好きかと訊かれると
好きというのは正直ためらわれる。後ろめたいからだ。 
確かに文章は呆れるほど美しく、
日本語表現の極北と言っていい。
そして、そのような極端に美しい文章で何が書かれているかといえば、
『美しいっていうのは、こういうことだよ』
ということの過剰なまでの例示であり、
その主要な部分は、『女という存在の美しさ』についての叙述で占められる。 
とりわけ強い印象を受けるのは、
このことを語るにあたって川端康成が
女という存在を、
徹頭徹尾『人』ではなく『モノ』として扱っているように見えることだ。
女の真剣な生き様や哀しみの発露を、
それこそ『美術品』として、微に入り細に入り『鑑賞』する態度である

『人のモノ扱い』、これは
西洋近代(モダン)の価値観からするとまぎれもない悪徳である。
だが、悪徳だからこそ強烈な魅力を発散することもまた事実で、
そこに後ろめたさが生まれる。
ここあたり、フランス革命期にマルキ・ド・サドが激烈に嫌悪された理由と
本質的に似ているところがある。
つまりは行儀の悪さへの憧れ、不健康な食べ物への渇望であり、
川端の場合、サドとの違いは、
非常に丹念に砂糖がけされていることだけだ。
このような『人のモノ扱い』を一例とする
『前近代=プレモダンの背徳』を通奏低音にしたやりかたは
現在に至るまで枚挙に暇が無く、
その後ろ暗い訴求力は、多くの人々を惹きつけ続けている。
それはたとえば村上春樹の諸作品の中にも色濃くあるし、
たとえばファイブスター物語のヒロインが人造人間であることもそうだし、
広く言えば、
砂糖がけをさらに徹底されて、『萌え』という概念の一部にもなっている。
きれいなところだけ抽出するということは、
つまり汚いところは全部捨てるということで、
人に対してそれをするには、モノとして扱うしかない。
そのような残酷を完全にやりきっているという点で、
雪国は再読のたびに感心する小説だ。
だが好きというのは、やはりためらわれる。
並外れて異常だ。
並外れて欠落している。
しかしそのように巨大な欠落こそが、才能なのだと強く感じる。